歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第9回)

三 北中国の混成

 

(3)匈奴の解体と諸族割拠

 冒頓単于の台頭以降60年にわたり、前漢は毎年多額の財物を贈って匈奴による領土不可侵を保証される羽目となり、この間の両国関係は河南オルドスまで南下占領していた匈奴側優位と言ってよかった。匈奴はまた、亡命漢人を官僚として登用し、記録や徴税など国家制度の整備も進めた。
 しかし、前漢に第7代武帝が現われると情勢が一変する。内政を安定させた武帝は、本格的な対匈奴戦争を開始、衛青とその甥の霍去病という有能な武将を起用して匈奴に勝利を収め、冒頓の後は名君に恵まれなかった匈奴を北方へ退却させた。北辺を安定させた前漢は、以後領土を拡大し、全盛期へ向かう。
 一方、匈奴国家は、漢の武帝に破られた後は支配下諸部族の離反・反乱や単于位をめぐる内紛にも見舞われ、東西に分裂したが、前58年に登位した呼韓邪単于がいったん再統一に成功する。しかし、呼韓邪は漢に対して臣従的な態度を取り、優位を保ったかつての勢いはもはや見られなかった。
 他方、前漢の衰退に乗じ、革命により漢を倒して新を建てた王莽は匈奴に対して蔑視的かつ強硬な態度で臨み、匈奴に干渉、その分裂を画策した。ところが、新も間もなく打倒され、再び漢室が王権を奪回、後漢が成立すると、一時的な漢の劣勢を突いて再び匈奴は漢に対して攻勢に出る。
 時の呼都而尸道皐若鞮[ことじしとうこうじゃくてい]単于は自らを往年の冒頓単于になぞらえるほどの勢いであったが、これも長続きしなかった。息子の蒲奴[ほど]単于の時、大規模な旱魃及び蝗害に見舞われ、亡国の瀬戸際に立たされたのだ。
 これを機に、蒲奴の従兄弟に当たる比が反乱を起こし、自ら祖父と同じ呼韓邪単于を称して独立、南匈奴を建てた。これより先、匈奴は南北に大分裂し、二度と統一されることはなかった。
 南匈奴は建国当初から一貫して後漢に服属する政策を採り、後漢の意を受け、北匈奴に攻勢をかけた。対する北匈奴後漢南匈奴による掃討作戦で衰退していき、国家としての体制も崩れ、部族勢力的なものへと回帰・転落する。後91年、北匈奴は、かつて匈奴に破られた東胡の流れを汲むとされる新興の鮮卑に大敗したところを漢軍の攻勢でとどめを刺され、中央アジア方面へ敗走、離散した。
 一方、漢に従順な南匈奴は長城内側に居住を許され、北辺の警備に当たる辺境伯的な地位を与えられ、存続していくが、もはや独立勢力とは言えなかった。後漢に服属したことから、その運命も後漢と共にすることになる。
 南匈奴後漢末から三国時代にかけての内乱に巻き込まれた末、実質上最後の単于となった呼廚泉[こちゅうせん]が最終的に魏の曹操に投降し、南匈奴曹操の手により五部に分割されたうえ魏に服属する。これ以降、統一国家時代から単于家を継承してきた攣鞮[れんてい]部も漢風の劉氏を名乗るようになり、漢族化していった。
 こうして匈奴が解体した後の北中国では、鮮卑南匈奴残党をはじめとする遊牧系有力諸民族(五胡)が台頭し、地域国家を建てて割拠するようになる。いわゆる五胡十六国時代である。100年以上に及んだこの分裂の時代を通じて、北中国では漢族も含めた諸民族の混成が進行する。