歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

白川郷内ケ島氏興亡物語(連載第2回)

二 白川郷内ケ島氏の興り

 

 白川郷を本拠とする白川郷内ケ島氏としての初代に当たるのは為氏であるが、白川郷内ケ島氏を興した実質的な家祖は為氏の父季氏だったと言える、前回も触れたように、季氏は足利第3代将軍義満の馬廻衆に名を連ね、内ケ島氏の家格を上げていたからである。
 馬廻とは戦時に大将の馬の廻りを固めて戦闘能力を備えた警護隊を務める武家の職制であり、武に秀でた忠実な精鋭武士から抜擢され、平時にも大将の秘書的な役回りを果たす側近集団であった。
 義満は室町幕府の本質的欠陥でもあった強力すぎる守護大名勢力への対抗上、馬廻衆を自身の近衛軍団として配備し、将軍直属の軍事力として守護大名の反乱事件の鎮定にも投入した。そうした馬廻衆に季氏が名を連ねたのは、足利氏への絶対的忠誠が評価されたからにほかならない。
 おそらく、季氏は山名氏が起こした明徳の乱大内氏が起こした応永の乱などに際しても、馬廻衆として従軍し、評価を高めたに違いないが、詳細な事績は不明である。
 その後、8代将軍足利義政馬廻衆をさらに強化して奉公衆として整備した。奉公衆も基本的に公方の近衛軍団であったが、平時には地方の将軍直轄領の管理を任される代官的な役割も担い、守護大名勢力へのより強力な牽制が狙われていた。
 この時代の内ケ島氏当主は季氏の子息為氏に代替わりしていたが、為氏が奉公衆に名を連ねたのも、父の代からの変わらぬ忠誠の所以であろう。しかも、為氏は単に奉公衆の一員というにとどまらず、義政から鉱山奉行を託され、金・銀・銅の鉱山資源に恵まれた飛騨への入部を命じられたのであった。
 ただ、それがいつ頃のことかは確定しないが、遅くとも寛正年間(1460年乃至66年)までには内ケ島氏の白川郷入部は完了していたと見られる。また、なぜ内ケ島氏がこのような命を受けたのかも不明であるが、この時期の内ケ島氏は信州に移封されていた模様で、飛騨とも近いことが考慮されたのかもしれない。
 いずれにせよ、これは東国武士・内ケ島氏にとっては縁のない飛騨への配置替えであったが、この移封が白川郷内ケ島氏の直接的な興りである。内ケ島氏が白川郷に土着したことにより、為氏以後、四代にわたる白川郷内ケ島氏が成立することとなった。