歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

神道と政治―史的総覧(連載第10回)

三 律令神道祭祀の確立

院政と熊野信仰
 平安時代までに日本神道のあり方として定着した神仏習合が平安末期の複雑な政治情勢の中で独特の形態をまとって発現したのは、熊野信仰であった。紀伊の熊野には古くから山岳信仰の場として何らかの宗教的施設がすでにあったと考えられるが、いわゆる熊野三山として定着するのは、平安時代のことである。
 熊野の原信仰の内容は定かでないが、初期には修験道霊場としてまず発展したと見られる。8世紀に役小角[えんのおづの]によって創始されたと伝えられる修験道という一種の神秘主義的宗教実践自体が神仏習合の土俗的な表象であり、修験者は祝とも僧とも取れる独特の宗教実践者であった。
 一方、仏教側では平安時代から浄土教の信仰が王侯貴族の間で隆盛化しており、神秘性を湛えた熊野が浄土と同視されるようになった。そうした中で、熊野本宮、熊野速玉、熊野那智の三大神社が有力化し、各社の祭神が仏教の如来や菩薩と同視される形でまさに神仏習合社として発展していったのだった。
 熊野三山は元来、別個の神社として発展してきたところ、平安初期には三山の統一が図られ、運営上も三山を統括する熊野別当職が置かれるようになっていた。熊野別当は神官ではなく、社僧であったが、仏僧が神社を管理するこの変則体制には、この時代の神仏習合が仏教優位のものとなっていたことを示している。
 とはいえ、熊野三山が単に宗教上のみならず、政治的にも強勢化した契機は歴代上皇の信仰と庇護を得たせいである。特に白河院の永久年間の参詣以降、上皇の熊野参詣が恒例化され、曾孫の後白河院の時代になると、30回を越す参詣を記録するまでになった。あたかも、熊野が院政の守護者となったかのごとくである。
 これに伴い、熊野別当の上に中央行政職として熊野三山検校が置かれたが、これは名誉職的存在で、熊野の行政管理はあくまでも熊野別当が執行した。熊野別当家は初代快慶に始まる世襲制であり、白河院から任命された長快以後、新宮別当家と田辺別当家に分裂しつつ、14世紀半ば頃まで続いていく。
 熊野別当は、院から寄進された所領を経営する封建領主となると同時に、熊野水軍の名で知られる軍事力をさえ掌握するようになり、平安末期に始まる武家の台頭という新たな情勢下で、武装化していくことにもなるのであるが、この神道の軍事化という事象については改めて次章に回すこととする。