歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第21回)

二十一 閔玆暎・明成皇后(1851年‐1895年)

 26代高宗の正室・閔玆暎は通称で「閔妃」と呼ばれるように、驪興閔氏の出であった。閔氏は孔子の高弟・閔子騫の末裔を称する中国系の豪族であったが、さほど有力家系ではなかったところ、大院君の正室にして高宗の生母が閔氏の出であったことで、俄然有力化したのだった。
 閔玆暎(以下、通称により閔妃という)が高宗妃に選定されたのも、高宗生母の推薦あってのことであった。当時の実権者で閔妃の舅となる大院君としても、従来勢道政治で権勢を誇った安東金氏を一掃するうえで、閔妃は利用しやすいと考えたようであるが、この目論見は外れた。
 閔妃は政治的な野心家であり、嫡男(後の純宗)を生むと、大院君追い落としのため、閔氏の派閥を作って権力闘争に乗り出すようになった。その結果、彼女は、大院君追放に成功し、閔氏を中心とする新たな勢道政治が復活した。
 実権を握った閔氏は、排外主義的だった大院君の路線を転換し、開国へ向かった。手始めは、明治維新直後の日本との関係構築であり、その結晶が1876年の日朝修好条規である。しかし、この条約は朝鮮にとり極めて過酷な不平等条約であり、後代の日韓併合につながる伏線であった。
 当時の閔妃は日本の力を借りて朝鮮近代化を図ろうとしており、特に軍の近代化を急ぎ、西欧的な新式軍隊を創設した。しかし、これが裏目となる。封建的な旧式軍隊を放置したことで、旧軍人の不満が高まり、1882年のクーデター(壬午事変)につながる。
 閔妃暗殺を狙ったこの事変では、多数の閔妃派要人が殺害されたが、辛くも脱出に成功した閔妃は清の軍事力に頼り、事変の首謀者と名指した大院君を清に連行させることで、復権を果たした。
 これにより清に借りを作った閔妃は日本をさしおいて清に接近するが、他方でロシアにも接近するなど、閔妃には時々の情勢に応じて周辺大国の後ろ盾を得ようとする事大主義的な傾向があり、このことは文字どおり、自身の命取りにもなる。
 1884年に親日開化派が起こしたクーデター事件(甲申政変)では、再び清の軍事力を借りて、復権した大院君を三日天下で追い落とすことに成功したが、日清戦争閔妃の最大の後ろ盾となっていた清が敗れると、今度は親露政策に活路を見出そうとする。
 これに不信感を抱いた日本と結託した大院君ら反閔妃勢力が蜂起し、宮殿に乱入して閔妃を殺害した(乙未事変)。こうして、大院君との20年に及ぶ熾烈な権力闘争に明け暮れた閔妃体制は突如、終幕した。
 この間、閔妃は正式に女王に即位することなく、王后の立場のまま、政治的に無関心・無能な高宗に代わって実権を保持していたのだが、周囲や外国からは事実上の朝鮮君主とみなされていた。その意味で、彼女は従来、朝鮮王朝でしばしば見られた垂簾聴政型の王后とは異なり、君主と同格の王后であった。
 彼女の反動的な勢道政治と事大主義は朝鮮王朝の命脈を縮めたが、一方で限定的ながら朝鮮近代化の先鞭をつけたのも、閔妃であった。特に文教分野では、キリスト教宣教師を招聘して朝鮮初の西洋式宮廷学院や女学校の設立を主導し、西洋近代的な文物・価値観の導入にも寛容であった。
 しかし、一方で呪術に凝るなど近代主義者としては限界があり、その政治路線も日和見主義的で、一貫しなかった。その点では、ほぼ同時期の清で実権を持った西太后と対比され、ともに近世から近代へ移り変わる激動期の中朝両国に出現した独異な女性権力者として注目すべきものがある。


黒田清隆(1840年‐1900年)

 明治維新後、近代的外交制度の下、長く朝鮮との通商関係を担ってきた対馬の宗家が退き、対朝鮮外交も外務省の所管に移った。初期の対朝鮮外交を政治レベルで主導したのが、後に第2代内閣総理大臣となる黒田清隆である。
 黒田は下級薩摩藩士の家に生まれた典型的な倒幕志士出身の明治元勲である。明治新政府ではまず北海道開拓という地味な分野からキャリアをスタートさせている。黒田は近代陸軍軍人でもありながら、帝国主義的な膨張には消極的で、征韓論に対しては内治重視の反対の論陣を張った。
 そういう黒田が1876年、朝鮮との国交交渉を担当する全権弁理大臣(大使)として締結したのが、日朝修好条規である。朝鮮の武力征服には反対しながらも、不平等条約としての性格が強い修好条規を通じて朝鮮を操縦していくという内治派の政略が反映されていたと見られる。
 もっとも、条約締結までの下交渉で活躍したのは外交官の森山茂(1842年‐1919年)であり、森山は77年に退官し元老院に転じるまで、ほぼ一貫して対朝鮮外交を担当したエキスパートであった。彼は当初、宋氏を通じた交渉に固執していた朝鮮側で大院君が失権し、明成皇后が実権を握った政変をとらえ、巧みに交渉して修好条規締結の環境整備をしたのだった。
 一方、黒田は森山の義弟(実妹の夫)でもあった政商・五代友厚との癒着が問題視された開拓使官有物払下げ疑獄で糾弾されながら、訴追は免れ、薩長重鎮として1888年には内閣総理大臣に就任している。
 しかし、朝鮮との不平等条約締結に寄与した黒田が、自国と欧米列強との不平等条約の改正交渉では頓挫し、国粋主義者による大隈外相襲撃事件を機にわずか1年半で内閣総辞職に追い込まれたのは皮肉であった。

◇三浦梧楼(1847年‐1926年)

 三浦は長州藩士・奇兵隊出身の近代陸軍軍人であり、西南戦争では政府軍の側で戦績を上げたが、黒田とは対照的に薩長藩閥政治に反対の論陣を張り、開拓使官有物払下げ疑獄では糾弾側に身を置いた。同時に議会開設・憲法制定を求める建白書を提出して左遷されるなど、民権派とは距離を置きつつ軍部内で反主流派を形成した。
 結局、三浦は黒田らに象徴される藩閥政治が跋扈した間は冷遇され、陸軍中将で退役せざるを得なかった。彼が再び日の目を見るのは、第二次伊藤博文内閣下で1895年、駐朝鮮全権公使に任命された時である。時の朝鮮は明成皇后の天下であった。
 ところが、着任後間もなく、三浦は皇后が王宮内で暗殺された乙未事変首謀者として検挙されることとなった。三浦は本国召喚後、広島で拘束され、旧司法制度の予審にかかるが、証拠不十分で免訴となり、釈放された。本国主導でのこの司法処理は、正式裁判を回避する真相隠蔽の疑いが強い。
 事変の黒幕は復権を狙い、日本にも接近していた大院君であった可能性が高いが、当時の複雑な朝鮮内政及び国際情勢の中、駐在外交官の三浦がどのような役割を果たしたのかは結局、不明のままである。その後の三浦は枢密顧問官となりながら終始藩閥打倒を唱え、政党政治の仲介人となるなど、内政上の立場は首尾一貫していた。