歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第19回)

十九 哲宗・李昪(1831年‐1863年)

 先代の24代憲宗は世子を残さず、夭折したため、後継問題が生じた。この時、23代純祖の王妃だった安東金氏出身の純元王后が動き、憲宗生母の神貞王后が出自した豊壌趙氏の機先を制する形で、22代正祖の弟の孫を担ぎ出した。これが25代哲宗である。
 こうした即位の経緯から、最初の三年間は大王大妃となった純元王后が垂簾聴政を取った。当然にも安東金氏の天下となり、こうした安東勢道政治は、哲宗が一応親政を開始してからも最後まで続いた。
 こうして、哲宗時代は勢道政治の弊害が最大限に発現する時代となった。具体的には、汚職の蔓延と財政破綻である。後者は、田政・軍政・還穀のいわゆる三政の紊乱という形で国家の基盤を揺るがした。
 こうした衰退現象はすでに前世紀から忍び寄っていたが、哲宗時代には、両班の事実上の私有地の拡大による農民搾取、兵役忌避と兵役代替課税の負担増、また貸米制度の高利貸化といった制度劣化現象として集中的に発現したのである。
 こうした体制の揺らぎのすべてを勢道政治の責めに帰することは困難であるが、本質的に腐敗した権力支配体制であった勢道政治には、体制を改革し、立て直す意思も能力も備わっていなかった。
 他方、ほとんど棚ぼた的に担ぎ出された哲宗も王としての資質には欠けていたようである。個人的には民心への配慮があったと言われるが、勢道政治を抑える気概も政略も持ち合わさず、晩年には政務を放棄して、酒色に溺れていった。
 民衆の体制への不満と将来への不安は、農民反乱と新興宗教への傾倒という二つの現象を引き起こした。農民反乱は、つとに純祖時代の1812年に勃発した平安道民衆蜂起が嚆矢であったが、この時は体制側にこれを短期で鎮圧するだけの余力があった。
 しかし、哲宗時代の反乱は忠清道全羅道慶尚道の南部地域で広範囲に継起するゲリラ戦的なものとなり、体制もこれを鎮圧し切れず、体制を内部から弱体化させる要因となった。
 一方、カトリック信者も増加し、両班層や宮廷人にまで信者が出現するほどであったが、慶尚北道出身の宗教家・崔済愚が創始した東洋的な新興宗教・東学も急速に信者を獲得していった。こうした「邪教」に対して体制は弾圧で臨むも、効果はなかった。
 不穏な情勢下、健康を害した哲宗は1863年、世子を残さず死去した。国王が二代続けて世子を残さず短命で没する事態は、体制の存続そのものにとっての危機であった。


§16 宗義和(1818年‐1890年)

 宗義和〔よしより〕は、兄の先代義章が嫡男なく死去した後を養子として受け、15代藩主に就任した。朝鮮との通商関係が閉塞した対馬藩にとって激動期の藩主であり、特に幕末と重なる治世晩期は波乱に満ちていた。
 最初の問題は、家督問題であった。義和は多くの側室を抱えていたが、中でも碧という平民出自の側室を寵愛するあまり、野心的な碧の教唆により、士分出自の側室が生んだ子を廃嫡し、碧の生んだ子を嫡子とする恣意的な決定を下したことで、お家騒動を招いたのだった。
 正室との間に子がなかったことが原因とはいえ、このような恣意的世襲は封建法の精神に反していた。しかし結局、碧の子が夭折したことを契機に決定は撤回され、碧も追放処分となった。この時、反碧派を形成したのが、義党という保守的な一派である。
 この問題が決着したのもつかの間、1861年には帝政ロシア軍艦ポサドニックが対馬に来航し、半年ほど対馬芋崎を占拠するという事変が勃発した。ロシア側の狙いは極東進出に必要な不凍港の租借という点にあった。その目的に沿って、ロシア側は無断で兵舎や練兵場などの建設を強行した。
 これは、大名封土とはいえ、江戸時代の日本が初めて外国に侵略された重大事件であった。事件は英国の介入を得て解決したが、辺境防備の無力をさらけ出した対馬藩では、江戸家老が幕府と密議し、宗氏の河内移封・幕府の対馬直轄移行が決まりかけた。
 しかし、これに反発した国元の義党が決起し、移封計画の中心人物であった江戸家老・佐須伊織を暗殺した。義党は尊皇攘夷派であり、前藩主義章の長州出身の正室であった慈芳院を通じて長州と結び、対長同盟を成立させたのであった。
 こうして実質的なクーデターを成功させた義党は、義和にも隠居を求め、藩主を嫡子に復帰していた義達〔よしあきら〕に交代させた。これにより、対馬藩では若い新藩主を擁した義党主導で、親長州の攘夷政治が展開されていくことになる。
 ちなみに、1863年に隠居した後の義和は明治維新を越えて20年近く長生し、廃藩置県後は余生を主に地元神社の神職として過ごして、明治23年(1890年)に没した。