歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

神道と政治―史的総覧(連載第4回)

一 古代国家と神道の形成

ヤマト神道とイヅモ神道
 いわゆる古墳時代は、全国に16万基を越える膨大な数の古墳が特定されていることからもわかるとおり、極めて地域性の強い首長制国家の乱立時代であったが、その中から、畿内を拠点とするいわゆるヤマト王権が有力化し、やがて全国的王権へと発展する。
 この畿内王権の起源に関して、筆者はつとに朝鮮半島南部の伽耶諸国から九州北部への渡来勢力がさらに東征して創始したものという説を公表しているが、その根拠として、故国に当たる金官伽耶国の始祖神話と日本神話に投影されたヤマト王権の始祖神話―いわゆる天孫降臨―の類似性を挙げた(拙稿参照)。
 この天孫系神々―天津神―の故地である「高天原」は、海を越えた大陸の暗示であり、「降臨」は渡海の暗示である。そして、天孫二二ギらの天津神にはヤマト王権を創始した集団の首長像が投影され、ヤマト朝廷の支配の根源とみなされるようになる。
 しかし、この天津神の優越性が示されるのは、国津神との対照性においてである。国津神天津神が出現する以前から国土を治めていたとされる土着的な神々であり、その代表格たる首長神が大国主である。
 この国津神の故地はイヅモである。イヅモ王権は出雲東部に発祥し、山陰地方で勢力を張り、その影響性は北陸方面にも及ぶ裏日本における大勢力であったと見られる。
 天津神の優越性はいわゆる「イヅモの国譲り」というストーリーによって示され、この背景にはヤマト王権によるイヅモ王権の征服という史実があるという解釈が示されている。これについても、筆者は別の角度から私見を述べた(拙稿参照)。
 私見はイヅモ王権に関しても、一定の渡来的要素を認めるが(上記拙稿)、それはともかくとして、ある時点で、ヤマト王権とイヅモ王権は同盟関係を結び、やがてはヤマト朝廷へ収斂されていった過程で、ヤマトの優位性を正当化する「国譲り」の神話が政治的に作り出されたのであろう。
 ヤマト王権系の神道―ヤマト神道―は、その後現代に至る神道の基軸に据えられていき、皇室が奉ずる宗教でもあるが、一方で、イヅモ王権系の神道―イヅモ神道―も、統一神道の中に組み込まれていった。
 とはいえ、イヅモ神道神道の個別流派として独自の地位を維持し、皇室もイヅモ神道のメッカとも言える出雲大社に礼を尽くすのは、ヤマト神道とイヅモ神道の微妙な政治的な接合関係を示している。