歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第16回)

十六 英祖・李昑(1694年‐1776年)

 20代景宗が急死した後を受けて即位した異母弟の21代英祖は、生母淑嬪崔氏が最下層の賤民階級出自という異例の王である。景宗の生母禧嬪張氏も中人階級出自ながら一時は王妃に昇格した異例の人物であったように、父王である19代粛宗の姻戚には出自身分を問わない気風があったようである。
 兄景宗の急死は延礽君を名乗っていた世弟英祖もしくはその支持勢力である老論派による毒殺とする風評もあるが、真相は不明のままである。ただ、英祖は即位するや、兄王の支持勢力であった少論派を排除し、老論派政権を形成したことはたしかである。
 しかし、1728年に少論派によるクーデター未遂事件(戊申政変)を経験した英祖は父王のように相対立する党派を交互に入れ替える「換局」の手法を採らず、老論派と少論派を平等に遇し、相互に牽制させる「蕩平策」と呼ばれる勢力均衡策を編み出した。
 この方法で英祖は以後、長期にわたる安定的な治世を維持した。その間、減税策や飢饉対策となるサツマイモ栽培の奨励など、民生に配慮する政治を行なった。また印刷技術の改良により、書籍の出版を支援し、庶民の知識の向上も図るなど、生母が下層階級出自の英祖の治世は歴代王の誰よりも庶民に篤い傾向を見せた。
 しかし、治世後半期、健康問題を抱えた英祖は後継者の荘献世子に代理聴政を取らせるようになっていたところ、少論派に近い荘献世子は老論派と対立し、1762年、老論派による告発により、英祖の命で廃位、米櫃への監禁による餓死という残酷な手法で処刑された。
 荘献世子の罪状は殺人を含む非行とされていたが、彼は当時、政争の中で精神を病むようになっていたとされ、荘献世子の刑死を招いた壬午士禍は、当時英祖の継室貞純王后を後ろ盾とした老論派による謀略だった可能性も指摘される。
 ただ、英祖は荘献世子存命中の1759年に荘献の子で自身の孫に当たる8歳の李祘を世孫に冊立していたところを見ると、荘献世子は実際病んでおり、後継候補としての可能性は事実上すでに消失しかけていたのかもしれない。
 後に、英祖は荘献世子に「思悼世子」の諡号を追贈したが、完全に赦したわけではなく、世孫李祘を正式に後継者とするに当たり、夭折した長男孝章世子の養子としたうえで後を託している。こうして、英祖は李氏王朝歴代王では最長の52年に及ぶ治世を終え、これまた歴代王で最長寿の83歳で死去した。
 英祖は強力だった父王粛宗の後継者にふさわしいまさに英君であり、その善政は次代の孫正祖にも継承された。粛宗から短命の景宗をはさみ、英祖、そして正祖の治世が終わる18世紀末年までの120年余りは、完全には封じ込め難い党争に左右されながらも、朝鮮王朝にとって最後の繁栄期だったと言える。


§13 宗義如(1716年‐1752年)/義蕃(1717年‐1775年)

 宗義如〔よしゆき〕は先代義誠の嫡男であったが、父が1730年に死去した際は年少のため家督を継げず、二年間は叔父の方熈〔みちひろ〕が中継ぎ的に藩主を務め、32年に正式に藩主となった。義如は享保元年の生まれであり、彼が藩主となった時、幕府側では将軍吉宗による改革が断行されていた。
 しかし、吉宗の享保改革は、対馬藩にとっては悪夢の一面があった。それは朝鮮貿易における主要な輸入品であった木綿や朝鮮人参の国産化奨励策である。特に後者は義如が藩主となる直前、日光御薬園にて国産化に成功、幕府は諸藩のみならず、一般向けにも国産人参の種子(御種人参)を配布し、栽培が普及したことから、1760年代には輸入の必要性がほぼ消失してしまったのである。
 このため、対馬藩の生命線である朝鮮貿易の収支が落ち込み、かねてからの財政難を悪化させた。そのため、家臣の知行借り上げや幕府からの年一万両に及ぶ補助金支給といった緊急経済対策を講じる羽目となった。そのうえ、義如自身も52年、折から流行していた天然痘のため急逝した。
 嫡男はまだ幼少のため、後を継いだのは、1739年以来、家老職にあった弟の義蕃〔よししげ〕であった。彼は家老として幕府からの補助金獲得交渉に当たるなど、兄藩主の右腕として藩政を支えていた。義蕃は十年の治世の後、甥で義如の嫡男義暢〔よしなが〕に譲位し隠居したが、自身が死去する前年まで実権を保持するなど野心的な一面があった。
 しかも、義暢は親政開始から四年で死去したため、義蕃の治世はほぼ義蕃時代の継続期間であった。この間も財政難は続き、朝鮮通信使接待費まで幕府からの援助に頼り、元来難儀な離島からの参勤交代を三年一度に軽減する措置を受けるなど、藩の維持に苦心している。