歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載最終回)

十六 尚泰王〈続〉

 前回見たように、薩摩藩主・島津斉彬の急死は琉球内政にも大きく影響した。斉彬の代理人的な役割を果たしていた牧志朝忠に反発する勢力が動き出したのである。1859年、牧志ら親薩摩派は三司官選挙での買収など数々の汚職の罪で一斉検挙され、拷問の末、自白、牧志は流刑となった。
 これが主犯格とみなされた二人の人物の名を取って牧志・恩河事件と呼ばれる疑獄事件である。薩摩藩は62年になって牧志救出に動き、彼を流刑先から連れ出し、薩摩へ亡命させようとするも、牧志はその途上、船上から謎の投身自殺を遂げている。疑獄の真否を含め、不可解な経緯である。
 明治維新後の尚泰王政権は、明治新政府廃藩置県政策の中で国の存亡がかかる正念場を迎える。明治政府は従来、清と薩摩藩への二重統属を認め、幕府とは薩摩藩を通じた間接支配関係を維持してきた徳川幕府とは異なり、琉球を正式に日本領土に組み込もうとしていたからである。
 結果、明治政府は1872年、いったん尚泰王琉球藩王に封じたうえ、日本の華族として処遇した。その後、明治政府は琉球に対し、清国との歴史的な冊封関係の解消を迫ったが、琉球側は難色を示した。これに業を煮やした政府は1879年、武力を背景とした外交圧力により琉球藩を廃し、沖縄県を設置した。
 日本側では「琉球処分」と称されるこの過程は、実態として、「琉球併合」であった。ある意味で、これはその後の大日本帝国による武力を通じた領土拡大政策の出発点ともなったと言える。これにより、日本領土は中国、東南アジア方面をも見据えた南方に延伸されたからである。
 この間、尚泰王の影は薄く、日本との交渉は三司官など伝統的な王府閣僚に任せ切りで、積極的に指導力を発揮した形跡はない。藩王の地位を剥奪された後の尚泰は東京移住を命じられ、沖縄を離れるとともに、侯爵の身分を与えられた。
 これに対し、尚泰の次男尚寅と四男尚順らは1890年代末、沖縄県知事職の尚家世襲制自治権の付与を求める公同会運動を起こし、事実上の復藩を政府に陳情するも、認められず、結局、沖縄県の日本統合は確定した。
 尚泰は侯爵として静かな余生を過ごし、帰郷は許されないまま1901年に急逝するが、琉球国王経験者としては唯一、20世紀まで生きた人物となった。その後、旧尚王家(第二尚氏)は、長男尚典を介して、今日も一般人として存続している。


九´ 島津久光(1817年‐1887年)/忠義(1840年‐1897年)

 薩摩藩側で最後の藩主となったのは島津忠義であるが、彼は先代斉彬の甥であり、実父は斉彬と藩主の座を争った野心的な久光であった。そのため、忠義体制下では、久光が「国父」と称され、大御所的に実権を握った。
 こうして正式に藩主に就かないまま最高実力者となった久光は藩政改革の中で、後に明治政府の首班として台頭する大久保利通ら、明治維新後に活躍する若手藩士を登用し、かつ自らも幕末の公武合体運動、さらには倒幕運動でも主導的役割を果たし、薩摩藩明治維新の主役に押し立てる功績を残した。
 その後、旧大名級としては例外的に明治政府に関与を続けるも、本質的に保守的な久光は明治政府の急進的な政策にはついていけず、特に廃藩置県には強硬に反対した。結局、彼は1876年、鹿児島県となった郷里へ隠居する。そのため、本来は薩摩も宗主として当事者であるはずの「琉球処分」問題に関与することもなかった。
 一方、息子の忠義は当初は父久光の後見・実権体制下で主体的役割を果たすことなく、その後も、大久保や西郷隆盛らに藩政を委ね、終始受け身であった点、琉球最後の尚泰王とも通ずるところがある。そして、尚泰同様、維新後は政府の命により東京に移住した。
 忠義は父とともに公爵を授爵され、貴族院議員も務めたが、1888年には政府の許可で帰郷していた忠義が明治政府で重要な役割を果たすことはなく、父の死の10年後、1897年に鹿児島で死去した。東京で客死した尚泰に対する扱いとは対照的であった。