歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第15回)

十六 尚泰王(1843年‐1901年)

 尚泰王は先代の父尚育王が若くして没したことから、1848年、幼少で即位した。そのため、治世初期の欧米列強との相次ぐ条約締結で主導的役割を果たすことはなかった。
 1850年代に琉球が締結した一連の条約のうち最初は米琉修好条約であったが、このとき米側のペリー提督は琉球征服を日本開国の突破口と認識して琉球に現れ、強硬上陸したのだった。日本に先立つ黒船来航である。
 最終的に、琉球日米和親条約に引き続いて、不平等条約の性質を持つ琉米修好条約の締結を半ば強制されることになる。これをきっかけに、フランス、オランダとも同種条約の締結を強いられた点は、日本本国の安政五か国条約の経緯と類似している。
 こうした不平等条約の締結は、江戸幕府(将軍徳川家定)、琉球王国ともに元首が弱体であったという事情が相当に影響していると思われる。
 幼少で即位し、琉球王国最後の王となった尚泰王の治世は、日本側の幕末から明治維新をはさんで24年に及んだが、明治維新後の治世に関しては、稿を改めて見ることにする。


八´ 島津斉彬(1809年‐1859年)

 薩摩藩主の中でも特に著名な島津斉彬は、彼を寵愛した曽祖父重豪の影響を受け、若くして洋学志向の改革派であり、良くも悪くも「重豪二世」のような藩主となることが予見された。
 そのため、緊縮財政派の父斉興に警戒され、庶子の久光への譲位が画策されたが、斉彬はこの企てを打ち破り、お家騒動(お由羅騒動)を利用して藩主の座を勝ち取ったことは前回述べた。
 1851年に藩主に就任した斉彬は開明・開国派として藩の富国強兵に務め、後の明治維新政府の先取りのような政策を藩内で実施するとともに、養女に取った親類の篤姫を将軍家定正室として送り込み、将軍家と姻戚関係を結び、幕府との人脈を生かし、外様ゆえに幕府要職には就かないまま、幕政改革にも介入した。
 斉彬はとりわけ洋式軍備に強い関心を寄せ、側近市来四郎を琉球に送り、琉球を介してフランスから兵器の購入を計画した。この際、薩摩藩に非協力的だった琉球王府の人事に干渉し、通訳官として薩摩の評価も高い牧志朝忠ら親薩摩派の陣容に立て替えている。
 他方、幕政では家定死後の将軍後継問題で一橋(徳川)慶喜を推し、大老井伊直弼と対立した。井伊は安政の大獄の強権発動で、紀州藩徳川慶福(家茂)を将軍に擁立、反発した斉彬は挙兵上洛を企てるが、兵の観閲中に発病し、間もなく急死した。
 存命中の父斉興や異母弟久光ら守旧派による暗殺説も囁かれる斉彬の急死は、琉球王府の権力闘争にも直接波及し、大規模な疑獄政変を引き起こすが、これについては稿を改めて見ることとにする。