歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第14回)

十五 尚育王(1813年‐1847年)

 琉球にも西洋列強の手が及び始めた19世紀前半の時期に登位した尚育王は、前回も見たように、父王が晩年精神障碍のため執務不能となったため、10代から摂政として政務を執っていた。
 在位中は、来航する列強との折衝に追われることが多かった。まず1844年にフランス海軍が宣教師テオドール‐オギュスタン・フォルカードを伴って来航した。王府はフォルカードの滞在を許したが、2年後には退去させている。
 同年には英国海軍が宣教師バーナード・ジャン・ベッテルハイムを伴って来航した。王府はフランスの先例どおり退去を求めるも、抗し切れず、医師でもあったベッテルハイムは琉球王室の祈願寺であった護国寺に居座り、当局の監視を受けながらも8年間にわたり医療及び布教活動を行なった。彼は聖書の琉球語翻訳も手がけるなど、琉球における最初のキリスト教宣教師として事績を残している。
 尚育王の国葬の際、ベッテルハイムが群衆に囲まれ、殴打されるという外交問題に発展しかねない事件が発生している。ベッテルハイムの布教が大衆間では快く思われていなかったことを示唆する事件であった。
 尚育王は年齢的にはさらに20年ほど生きて琉球王国最後の王となった可能性もあったが、47年、30代にして没した。摂政時代を合わせれば、約20年の治世であった。


七´ 島津斉興(1791年‐1859年)

 島津斉興は、いわゆる近思録崩れのクーデターにより隠居に追い込まれた父斉宣に代わって、祖父重豪によって若くして藩主に擁立された経緯から、祖父が没した1833年までは当然にも祖父の傀儡藩主に過ぎなかった。
 しかし親政を開始すると、晩年の祖父が見出していた下級藩士出身の調所広郷を家老に抜擢して、藩政改革を断行させた。そのため、斉興の時代は調所改革の時代と重なる。調所改革の目的は放漫財政家の重豪時代に500万両にまで達していた負債の整理ということに尽きていた。
 そのために調所は事実上のデフォルト策、琉球を通じた清との密貿易、琉球征服以来薩摩藩直轄となっていた旧琉球奄美諸島での黒糖搾取(黒糖地獄)などの強硬策をもって比較的短期のうちに財政再建を果たし得たのであったが、そのつけは政争に巻き込まれての横死であった(自殺説あり)。
 政争とは、斉興の後継をめぐる嫡子斉彬と庶子久光の間でのお家騒動―町人出身の久光の生母お由羅の方の名にちなみ、「お由羅騒動」と呼ばれる―であった。封建的発想では嫡子の斉彬後継が正論だが、重豪の気質を受け継ぎ「蘭癖」のあった斉彬を嫌う調所は、主君の斉興とともに久光を推していた。
 だが、幕府中枢と通じた斉彬派の画策により、調所は密貿易の件を国策捜査で追及される中、急死したのである。その2年後には久光派であった斉興も幕府の介入によって隠居に追い込まれ、斉彬に藩主の座を譲ったのであった。