歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝〔増補版〕(連載第9回)

九 中宗・李懌(1488年‐1544年)/仁宗・李峼(1515年‐1545年)

 暴君と化した燕山君を廃位に追い込んだ1506年のクーデターは「中宗反正」とも称されるように、新たな11代国王に擁立されたのは燕山君の異母弟に当たる中宗であった。しかし、燕山君即位時と同様、18歳の年少国王であり、彼の長い治世は「反正」には程遠かった。
 対外的には、治世初期の10年に三浦の乱が起きている。これは、15世紀前半以降、半島南部の三つの海港(三浦)に居留し、朝鮮当局の司法や徴税も及ばないような形で事実上自治を行なっていた日本人(恒居倭)が起こした反乱を対馬領主宗氏が援軍した武力衝突事件であり、その背景には朝鮮当局による日本人への管理統制強化への反発があった。
 三浦の乱を鎮圧した後は内政混乱が待っていた。中宗は勲旧派のクーデターで擁立されたにもかかわらず、彼らの増長を抑えるため、政権初期には燕山君時代に弾圧された士林派を復活させたため、これを巻き返しのチャンスと見た彼らの権勢が増した。
 特に15年から19年にかけては儒学者でもある趙光祖を中心とする士林派が実権を握り、儒学の理念に基づく急進的な改革を断行した。趙光祖儒教的理想主義者であり、その主張には当時の朝鮮王朝では現実離れした点が多々あったうえ、科挙によらない人材登用や偽勲者の追放など勲旧派の権益を脅かす施策を進めたため、19年、勲旧派の謀略により、趙光祖をはじめとする士林派が弾圧され、趙光祖も流刑の後、賜死となった(己卯士禍)。
 これ以降、中宗治下では弾圧、陰謀、反逆事件が相次ぎ、燕山君時代に勝るとも劣らぬ政情不安に陥った。指導力を欠く中宗の宮廷では、勲旧派と姻戚の権力闘争が絶えなかった。晩年には継室文定王后とその親族の政治介入を招いた。ただ、唯一の救いは、燕山君と異なり中宗は暴君ではなかったことである。そのため、彼は44年に死去するまで、38年の長期治世を保った。
 中宗の死の前日に譲位を受けた長男の12代仁宗は成均館で学んだ好学の君主で、故・趙光祖の理想に基づく政治の復活によって父王時代に凋落した国政の改革を試みたが、李朝歴代国王中最短の在位わずか8か月にして死去した。
 その急死には不審な点もあり、仁宗の政治改革を快く思っていなかった育ての親である文定王后による謀殺説も提起されるが、真相は不明である。ただ、仁宗の早世は続く13代明宗の生母でもある文定王后とその親族にとっては密かな慶事であったことはたしかである。


§7 宗義盛(1476年‐1520年)/宗晴康(1475年‐1563年)

 宗義盛は先代材盛の嫡子として後を継いだが、時代は戦国期、対馬でも守護代家の権勢が増していた。そのような時に起きたのが、上記三浦の乱であった。この事件は直接には朝鮮在留日本人が起こしたものだが、義盛はこれに加勢する形で介入している。
 当時、宗氏はこうした朝鮮在留日本人に対しては三浦代官を派遣して管理するようになっていたため、乱に際してはむしろこれを鎮圧すべき立場にあったところ、援軍した背景には、当時権勢を増していた守護代家への対抗があったともされる。
 義盛は自ら軍勢を率いて参戦したが、結局は敗北した。結果は、朝鮮との通交断絶であった。しかし、それで終わらない粘りも宗氏の持ち味である。乱後から大内氏を通じた講和交渉に入り、わずか二年後には通交再開・講和条約に漕ぎ着けている。
 ただし、新条約(壬申条約)の内容は乱の根源であった恒居倭廃止はもとより、開港場は一箇所に制限、島主歳遣船の減便、通交許可審査の厳格化など、宗氏にとっては厳しい内容であった。しかし、宗氏はこれを受け入れるしかなかった。
 義盛の威信はこれによりいっそう低下したようであり、彼の没後、宗氏当主は宗家(本家)を離れ、盛長、将盛と分家に転々継承される混乱が続く。
 こうした家内混乱を収めたのが1539年、家臣団の反乱で追放された甥の先代当主将盛を継いだ宗晴康である。彼は混乱の原因であった多数の分家を整理し、宗家以外の宗氏公称を禁ずる措置を発動して、対馬所領の統一と戦国大名化を推進した。
 一度は僧籍に入っていた晴康は還俗してかなりの高齢で当主に就き、1553年に嫡子義調〔よししげ〕に家督を譲った後、当時としては異例の89歳という長寿を全うしている。年齢にかかわらず、有能かつ頑強な戦国大名型の当主であったのだろう。