歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝〔増補版〕(連載第8回)

八 燕山君・李㦕(1476年‐1506年)

 9代成宗が1494年に死去した後を継いだのは、18歳の世子李㦕であった。年齢的に見て大妃の後見が必要なはずであったが、生母尹氏は去る82年に賜薬を下され、処刑されていた。
 弱小両班の生まれながら成宗の寵愛を受けた王后尹氏は性格と素行に問題があり、呪詛事件を起こして降格されたうえ、尹氏のもとを訪れた成宗の顔面をひっかくという前代未聞の粗暴な不敬の罪により処刑に至ったのだった。この賜死事件が、燕山君の治世に大きな影を落とすことになる。
 即位当初こそ父王時代の施策を継承し安定した治世だったが、父王の時代に登用されるようになった士林派に対して、勲旧派の巻き返しが始まる。彼らは未熟な王を唆して士林派の追い落としを狙った。そのため、燕山君の治世では度重なる士林派弾圧が実行された。だが、弾圧は次第に相手を選ばぬものに変わっていく。
 決定的だったのは、1504年の甲子士禍である。この事件は、国王側近が生母尹氏の死の経緯を王に吹き込み、その死に関わった人物の大量検挙・処罰を断行させた事件であり、弾圧対象は士林派を越えて一部勲旧派にも及び、尹氏賜死を主導した燕山君の祖母仁粋大妃すら糾弾され憤死するほどであった。
 これらの弾圧事件は王自身が主導したというより、若い王を唆して政敵の排除を図ろうとする一部側近者らの画策によるものであり、ここには後見役を持たない若年君主の弱点が現われている。
 結果として多くの有為の人材が失われ、朝廷では姻戚や宦官が跋扈するようになった。とりわけ、賎民出身ながら芸能に優れていたため、燕山君に寵愛された後宮の張緑水は政治的にも権勢を持つようになり、その親類も栄進した。
 一方、燕山君は政務を放擲して女性たちとの遊興に耽るようになり、高麗王朝時代からの高等教育機関である成均館すら遊廓に変えてしまうほどであった。諫言する重臣は処刑され、もはや手に負えない乱心の暴君であった。
 そうした中、ついには勲旧派でさえ危機感を抱くようになり、1506年、クーデターが実行される。孤立無援状態にあった王はあえなく廃位され、江華島へ配流された。燕山君に封じられたのはこの時であり、後世の追贈を含めて廟号を持たない最初の李朝国王となった。
 このクーデターでは燕山君の側近者や先の張緑水のほか、王子も全員処刑されるという徹底した燕山君系統根絶が図られた。燕山君自身も配流からわずか二か月にして30歳で急死している。公式には病死とされているが、タイミング的には疑念もある。
 病的な燕山君の治世は李朝体制にとって一つの転機であり、これ以降、李朝ではしばらく英主を欠き、求心力を喪失した朝廷では重臣らが党争を繰り広げる動揺の時代に突入していく。


§6 宗材盛(1457年?‐1507年)

 宗材盛〔きもり〕は燕山君とほぼ同世代で重なる宗氏当主であった。偽使を用いた朝鮮通交を拡大したやり手の父貞国から家督を継承した材盛は父の政策を継承したと思われるが、時代は応仁の乱を経て戦国時代に入ろうとしていた。
 九州辺境地対馬でもその波を避けることはできなかったと見え、材盛の頃から下克上的な動きが見られる。それは、材盛が1501年に代官(事実上の守護代)に任命した一門の宗国親の権勢が増大したことである。材盛は最晩年には息子義盛に家督を生前譲与していたと見られるが、その頃には国親による領主権の侵食が顕著になっていた。そのことが、材盛の死から三年後の日朝紛争・三浦の乱にもつながる。