歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第7回)

七 成宗・李娎(1457年‐1495年)

 7代世祖の早世した長男義敬世子の子である9代成宗は8代睿宗が幼児を残して死去した後、祖母慈聖大妃の主導で年少にして王位に就き、成長した1476年までは大妃の垂簾聴政を受けた。この時期には世祖時代からの重臣申叔舟などの旧勲派長老と姻戚が政治を采配していた。
 76年に親政を開始すると、成宗は旧勲派を遠ざけて、新興の科挙官僚集団(士林派)を重用するようになった。彼らはこの頃儒学理論武装により実力をつけてきた地方の在郷両班層から出た官僚であり、言わば新興中産階級であった。
 このような新旧の派閥形成は専ら成宗没後に巻き返しを図る旧勲派との間の党争の原因となるのだが、さしあたり成宗の時代は、世宗以来の英君の声望高い成宗の善政が敷かれ、垂簾聴政期を含めて25年に及ぶ久々に安定した長期治世となった。
 成宗時代は世宗時代同様に文教政策が充実し、文化的には李朝の黄金期を画した。世祖時代の陰謀事件に巻き込まれ、廃止されていた集賢殿に匹敵する王立研究機関弘文館も新たに設立されている。
 特に注目されるのは、地理学の発展である。すでに垂簾聴政期に、世宗時代の朝鮮通信使の一員として訪日経験を持つ申叔舟に命じて日本と琉球の地誌として史料的価値の高い『海東諸国紀』を公刊させたほか、親政期にも全五十巻に及ぶ朝鮮地理書『東国輿地勝覧』を編纂させている。
 こうした内外地理への関心は国土の確定を示すとともに、法制度面でも未完だった『経国大典』を最終的に完成・公布した成宗時代は、李朝体制がようやく名実ともに完成した時代と言えた。
 王があと20年ほど長生していれば、この後、再び体制を動揺させることとなる政治混乱は避けられていたかもしれなかったが、短命者が少なくない一族の遺伝的体質からか、成宗は95年、38歳にして死去し、王世子にして李朝史上最悪のトラブルメーカーとなる燕山君が即位する。


§5 宗貞国(1422年‐1495年)

 宗貞国は先々代貞盛の甥に当たるが、先代成職の養子となって後を継いだ。従って、貞国以降、宗氏の系統は実質上交替したと言ってよい。なお、貞国の実父盛国は大内氏との戦いで敗死し、すでに亡かった。
 45歳を過ぎての家督継承となった貞国には、弱体であった先代成職が積み残した家内的にも外交的にも難題が待っていた。家内的課題は先代時代に分裂していた宗一族再統一であったが、貞国はこれを解決し、一族再統一を成し遂げた。
 外交的課題は宗氏の生命線である朝鮮王朝との通商関係であったが、貞国はこれをライバル関係にあった博多商人及び大内氏双方と連携することで強化するという巧みな政略を確立したのだった。それを可能にしたのは1469年(応仁三年)の将軍足利義政の命による筑前出兵であった。
 これは本来大内氏牽制を目的とし、宗氏の主家筋少弐頼忠を擁して行なわれた軍事作戦であったが、上記の朝鮮側史書『海東諸国紀』によれば、貞国は頼忠とある雪中作戦をめぐり不和になり、間もなく対馬へ帰還してしまったという。そこへ大内氏が貞国抱き込みを図り、宗‐大内連携が成立したのである。
 一方、博多商人とは貞国の筑前出兵・博多進駐の際に連携関係が成立したと見られ、これによって貞国は二大ライバルと提携しつつ、新たな形態の偽使通交に道を開いた。新たな偽使通交とは、架空名義を使った偽王城大臣使通交である。本来は在京有力守護大名名義の王城大臣使通交を騙った偽使は先代の頃から宗氏の常套手段となっていたが、貞国の代では博多商人がこれに参加する形でより頻回に行なわれるようになった。
 しかし朝鮮側でもこうした偽装を見抜き、対策として1482年に室町幕府と協議のうえ、稀少な象牙製の割符をもって通交使節の査証を行う牙符制を導入した。これにより宗氏の偽使は大幅に抑制されるが、1493年の明応の政変を機に牙符は大内氏・大友氏の手に流出してしまう。
 この出来事は宗氏が偽使を再開するチャンスであったが、貞国はすでに政変の前年に家督を息子の材盛〔きもり〕に譲って隠居、政変の翌年には死去した。時代は戦国時代の入り口にさしかかろうとしていた。