歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第5回)

四 世宗・李祹(1397年‐1450年)

 前回太宗の項でも触れたように、世宗は先代太宗の三男であったが、世子だった兄が素行不良のため廃嫡されたことにより、入れ替わりで世子となり、太宗から生前譲位を受けて1418年、4代国王に即位した。
 世宗は上王として院政を敷いた父が死去した22年以降、親政を開始する。世宗の治績として最も著名なのは現代まで使用されているハングル文字(訓民正音)の創製指導に代表される文教政策であるが、彼の治績はそれだけにとどまらず、多岐にわたっている。
 内政面では父が推進していた中央集権制の確立に努め、父の時代に作られた議政府(内閣)‐六曹(官庁)体制をいっそう集権化し、王が直接六曹に指揮命令できる直啓制を導入した(病弱化した晩年に撤回)。
 財政経済政策面では、銅銭・朝鮮通宝を発行して貨幣経済の普及を促進したが、銅銭1枚=米1升という高貨だったため、普及には至らなかった。また鉱業を統制し、明との朝貢貿易における貢納品である金・銀朝鮮人参に改めるなど鉱山資源の管理に努めた。
 対外的には、太宗院政時代の対馬戦役の失敗を踏まえ、倭寇対策を対日友好関係の構築に求めた。その一環として在位中三度にわたる通信使を日本に派遣し、同時代の室町幕府と修好した。晩年には対馬領主の宗氏と通商協定を締結し、宗氏を被官に取り込むことで、日本側との仲介役とした。
 こうした平和外交の一方で、武力を用いた北方領土の拡張も積極的に行い、女真族支配地域への侵略戦争と占領地の入植・開拓による農地の拡大を推進した。
 こうした内政外交面の強化策を知的な面で支えたのが、積極的な文教政策であった。元来、世宗は王子時代から両親に心配されるほどの本の虫で、自身好学の君主であったことも文教政策への傾倒を促進したのであろう。
 ただ、このようなインテリ君主にありがちなこととして、世宗はイデオロギー統制にも熱心であった。すでに父の時代に始まっていた廃仏政策をいっそう強化し、寺院の閉鎖を強力に進めた。
 一方で、儒教儒学を国教・国学として教化するべく、形骸化していた王立学問所・集賢殿を再編し、多くの儒学者を集めて多方面の研究活動に当たらせた。かの訓民正音を創製したのも、集賢殿の学者たちであった(世宗単独創製説もあり)。
 世宗時代以降、朱子学が体制教義として確立される点では徳川幕藩時代の日本とも類似するが、徳川体制では正統朱子学林羅山を祖とする林家が奉ずる林派に統一されたのに対し、朝鮮ではある種の思想的自由が保持され、林家に相当する世襲の御用儒家が存在しなかったため、朱子学の流派とも絡み、宮中を揺るがす党争がしばしば発生するようになった。ただ、世宗在位中はさしあたり大きな党争は発生せず、世宗時代は平穏無事であった。
 もっとも、訓民正音の創製に際しては、民俗文字の創製は漢字を共通文字とする中華秩序への反逆であり、朝鮮の夷狄化を招くとする保守派儒者らの強い反対を招いたが、民衆も容易に習得可能な文字の普及を目指す世宗はそうした反対を押し切って、公布に踏み切った。
 その30年余りの治世で李朝体制は強固に確立された。そのため、世宗はその業績をたたえて「大王」を冠されることが多いが、実のところ、その政策の多くは父太宗時代の継承発展であり、世宗を後継指名した決断を含め、太宗の存在なくして世宗は「大王」たり得なかったであろう。

 


§3 宗貞盛(1385年‐1452年)

 宗貞盛対馬領主宗氏の支配の基礎を固めた先代貞茂の子として、家督を継いだ。奇しくも朝鮮の英君世宗即位の同年であり、在職期間も世宗とほぼ重なっていた。
 彼がまず直面したのが継承翌年の応永の外寇であった。この時、襲来した朝鮮軍は軍船227隻、兵員17285人と記録される大部隊で、倭寇取締りのベテラン李従茂将軍に率いられていた。これに対し、明らかに劣勢の対馬武士団であったが、貞盛は奮戦するとともに、台風の接近を匂わせて撤収させる情報戦も駆使して撃退した。
 朝鮮側も宗氏を討つ意図はなく、結局、再征論も沙汰止みとなった。貞盛は朝鮮側と戦後交渉に当たり、朝鮮側の要請に答えて倭寇対策を講じつつ、日本と朝鮮との通交に際して宗氏発行の渡航許可証を要する文引制を導入させ、朝鮮との通交権の独占を図った。
 これにより、宗氏は狭小な農地ではなく、対朝鮮通交権を知行として家臣団に分配することで領国支配を強化することができたのであった。総仕上げとして、1443年(嘉吉三年)に正式な通商協定を締結し(嘉吉条約)、朝鮮との通交関係を定めた。
 この条約により対馬‐朝鮮間の通交は宗氏の独占が認められるとともに、宗氏は朝鮮国王の被官という立場も保障され、室町幕府と朝鮮王朝への二重統属体制の基礎が築かれた。ただし、この条約では対馬からの歳遣船は毎年50隻を上限とされたため、宗氏の朝鮮通交は制限されたが、その後も偽使を含めた種々の手段で朝鮮への通交を活発に行なった。
 とはいえ、この時点では宗氏の朝鮮貿易独占はまだ確立されておらず、博多商人というライバルを擁したほか、百済王子の末裔を称し、独自に朝鮮との通交を行っていた周防の守護大名大内氏と対立するなど、なお不安定であった。
 そうした中にあっても、貞盛は相当なタフ・ネゴシエーターとして世宗の朝鮮王朝と渡り合い、後世対朝鮮申次役としての宗氏の土台を固めた人物と言える。