歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第7回)

八 尚元王(1528年‐1572年)/尚永王(1559年‐1589年)

 通算78年に及んだ尚真・尚清父子王の治世が1555年の尚清王の死をもって終焉すると、大勢いた王子たちの間での王位継承抗争が起きるも、翌年、先代から後継指名を受けていた次男の尚元が王位に就くことで終息した。
 尚元王時代には、九州薩摩の戦国大名として実力をつけていた島津氏との外交関係が密になった。しかし、薩摩外交使節の接遇をめぐって摩擦も起こした。その意味で、この時代は次の世紀に起こる薩摩藩による侵攻・占領の予兆を感じさせる時代であったと言える。
 軍事的には倭寇撃退や奄美大島親征の事績が記録されるが、これが身体にたたったか、尚元王奄美戦役の翌年に病没した。後を継いだのは、庶子の長男を飛び越え、まだ15歳ほどの嫡次男尚永だった。
 尚永王の時代、明からの冊封使琉球国の忠義ぶりを「守礼之邦」と称賛したのを記念して首里城の大手門に「守礼之邦」の額が掲げられたことから、守礼門と通称されるようになったという。
 しかし、尚永王はこうした儀典以外にさしたる事績も残さないまま、30歳で死去してしまう。しかも子は女子のみで、世子がなかったため、後継者は王の異母弟尚久が順当であったが、彼が固辞したことから、尚真王長男を祖とする王族小禄御殿4世の尚寧が就くこととなった。


一´ 島津氏の台頭

 17世紀以降、琉球国の宗主となる薩摩島津氏は源氏流を称したが、本来は平安貴族惟宗氏を出自とし、元は藤原氏筆頭近衛家の所領であった九州の島津荘荘官に任じられ、九州に下向したことに始まるという。その点では、対馬領主として台頭していく宗氏とも同祖関係にある氏族である。
 鎌倉幕府樹立後、源氏により地頭に取り立てられ、薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大級の荘園であった島津荘を継承する強大な守護職に就いた島津氏だが、1209年の比企能員の変に連座して薩摩一国の守護へと縮減され、薩摩領主としての地位が確立する。
 島津氏の所領薩摩は本州最南端の辺境地であったためか、以後の島津氏は浮沈を繰り返しながらも薩摩の地にとどまり続ける一種の辺境領主として定着した点では、対馬の宗氏や北方の辺境領主であった松前氏とも類似するところがある。
 戦国時代の島津氏は周辺国人勢力の蠕動や一族内紛などにより弱体化を見せるが、この状況を転換し、島津氏を戦国大名として確立したのが島津忠良・貴久父子であった。父子は島津氏分家伊作〔いざく〕家の出自であり、本来は傍流であったが、宗家との武力闘争に打ち勝ち、島津氏統一に成功したのだった。
 忠良・貴久父子の時代の島津氏は鹿児島の城下町の整備に加え、琉球を通じた対明貿易を盛んにして財力もつけ、九州統一へ向けた基礎を固めたが、貴久の息子義久は悲願の九州統一目前にして、豊臣秀吉九州征伐に屈し、豊臣氏の軍門に下ったのであった。