歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

仏教と政治―史的総覧(連載第24回)

八 チベット神権政治

神権体制の創始
 チベットで確立される独特の神権体制の起源は、吐蕃王朝滅亡後、13世紀にモンゴルの侵攻を受けたことにあった。当時のチベットでは、分裂状況の中、有力氏族ごとの仏教系宗派集団が形成される傾向にあった。
 そうした中、中央チベットのツァンを本拠とするコン氏族系のサキャ派教団が有力化しており、同派4代座主サキャ・パンディタがモンゴルからチベット主要地域の政治的権限を付与されたことで、モンゴル帝国を後ろ盾とするサキャ派政権が成立した。
 続く5代座主のパクパはモンゴル皇帝クビライ・ハーンからチベットの政治的・宗教的権威とともに、初めてモンゴル帝国の最高宗教権威である帝師の称号を与えられた。これによって、モンゴルとチベットチベット仏教を国教として共有する関係が形成された。
 この仏教を軸としたモンゴル‐チベット体制はモンゴル主導という点では属国関係であったが、宗教上はチベット側が守護者の立場に立つある種の神聖同盟であった。しかし14世紀以降、モンゴル帝国の衰退はチベットにも大きな余波を及ぼす。
 14世紀半ばには、密教的色彩の強いカギュ派分派のパクモドゥパ派が台頭、クーデターによりサキャ派政権を打倒して、中央チベットを掌握した。パクモドゥパ政権は元朝崩壊後、独立を回復するも、15世紀後半、座主家外戚のリンプン家が実権を掌握して、リンプン家体制が出現するが、これも長持ちせず、同家家宰ツェテン・ドルジェが政権を簒奪し、ツァントェ王を称して王国を樹立した。
 この歴代ツァントェ王による世襲のツァンパ政権はカギュ派分派カルマ派に依拠したが、神権体制というより、旧吐蕃王朝のような世俗王朝に近いものであったが、これも100年は持たなかった。17世紀前半、モンゴル高原西部を本拠とするモンゴル系オイラト族がグーシ・ハーンの下に台頭し、チベットに侵攻、ツァンパ政権を打倒したからである。
 この時代のチベットでは15世紀に学僧ツォンカパが開いた後発宗派ゲルク派が勢力を伸ばしており、グーシ・ハーンはゲルク派信者であったことから、彼は同派最高権威ダライ・ラマ5世を擁立し、新たな神権体制を立てたのである。
 一方、チベット南部の延長域とも言えるブータンでは、13世紀にチベットから伝わったカギュ派分派のドゥク派が普及していたところ、17世紀初頭、チベットのツァンパ政権が介入した内紛に敗れ、ドゥク派座主を追われたガワン・ナムギャルが現在のブータン地域に入り、亡命政権を立てた。
 これを認めないツァンパ政権、さらにその後のダライ・ラマ政権もガワン・ナムギャル政権をたびたび攻撃するが、ガワン・ナムギャルはこれらを撃退し、1651年に没するまで独自の神権体制の建設を進めた。
 また、吐蕃滅亡後、旧版図であったヒマラヤ山麓のラダックでは、15世紀後半、ラチェン・バガンによってチベット系ラダック王国が統一され、17世紀前半にはセンゲ・ナムギャル王の全盛期にグゲ王国を滅ぼした。ラダックは17世紀後半、チベットと勢力争いを展開し、チベット軍に攻め込まれた末、条約をもって勢力範囲を確定したが、以後ラダックの勢力は弱体化を免れなかった。
 ちなみに、イスラーム教地域との境界上にあり、領内にムスリムも居住したラダックでは神権政治は行なわれず、世襲の王が支配する普通の君主制が採用されたが、歴代王はチベット仏教に帰依し、領内には数多くの仏教寺院が建立され、「小チベット」の異名を取った。