歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第4回)

五 尚徳王(1441年‐1469年)

 尚徳王が父尚泰久王から円滑に王位を継承した時は、まだ20歳そこそこであったが、彼は間もなく強い指導力を発揮し始める。彼の時代に東南アジアの当代有力な港市国家マラッカとの貿易を開始し、琉球を東アジアの港市国家へと発展させた。
 また父の代から仕えていた京都五山臨済宗僧侶芥隠承琥を使者として、日本の室町幕府に派遣、時の将軍足利義政と謁見し、日本との関係も深めた。芥隠承琥は第二尚氏王朝時代にもまたがって琉球で仏教禅宗の布教にも注力し、現在では失われた琉球王家菩提寺円覚寺を建立するなどの事績を持つ。
 しかし尚徳王代における最大の事績は、1466年の喜界島征服である。この作戦は王自らが親征するほどの力の入れようであった。結果は成功であったが、遠征は重臣らの反対を押し切って行なわれたうえ、王国側の損害も相当なものであったらしく、尚徳王は次第に重臣の信頼を失ったとされる。
 元来、尚徳王には国王親政の意思が強かったと見られる。父王以来の重臣であった金丸がいったん引退したのも、年齢的な理由以上に尚徳王との衝突が原因と考えられる。
 第二尚氏王朝成立後に編纂された史書尚徳王を暴君として描くのは、やがて第一尚氏王朝を倒す金丸が創始した第二尚氏王朝の正当性を根拠づけるためのプロパガンダであろう。しかし、尚徳王代は領土も最大に広がり、相対的には第一尚氏王朝の全盛期であった。
 尚徳王が長生していれば、第一尚氏王朝はさらに持続した可能性があるが、そうはならず、尚徳王は1469年、30歳を前にして早世してしまう。この死は自然死だったと見られるが、この後、重臣らが尚徳王の世子を後継に立てようとしたところ、群臣がこれを殺し、引退していた金丸を新国王に推戴したという。
 このクーデターの後、第一尚氏王朝の王族はほぼ皆殺しにされ、尚円王となった金丸が第二尚氏王朝を開始するのである。こうして、琉球最初の統一王朝であった第一尚氏王朝は、計7代60年ほどで、その最盛期にあっけなく滅亡したのであった。