歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第3回)

三 尚金福王(1398年‐1453年)

 尚金福王は先代の甥尚思達王が継嗣を残さず没したために、王位に就くことになった。彼の四年ほどの在位中の事績としては、明使を迎えるために、港として整備した那覇と王城のある首里を結ぶ堤道として長紅堤を築造したことが挙げられる。
 この事業も尚巴志王時代からの明人国相懐機が指揮を執っており、第一尚氏王朝初期の国づくりにおいていかに彼の貢献が大きかったかがわかるが、そのことは同時に、初期の第一尚氏王朝が外国人頼みに陥っていたことをも示している。
 尚金福王は長生していれば、名君となった可能性があるが、不幸にして在位四年で没してしまう。その死は急だったようで、後継をめぐって王子志魯と王位を請求する王弟布里の間で紛争が起き、内戦にまで発展した。
 この志魯・布里の乱により王城首里城は焼失、志魯・布里両人ともに戦死という最悪の結果に終わった。この乱はいまだ不安定な第一尚氏王朝にとっては打撃であり、その命脈を自ら縮めたことは間違いない。

四 尚泰久王(1415年‐1460年)

 王位を争った志魯・布里両人の死により王位が回ってきたのが、尚巴志の存命中の七男尚泰久であった。彼は越来〔ごえく〕に領地を与えられた按司の立場にすぎなかったが、彼が抜擢し、後に第二尚氏王朝を建てる重臣の金丸らに擁立されたのである。
 そうした経緯もあって、尚泰久王は強力な王権を形成できず、金丸ら重臣の発言権の増大を抑え切れなかったようである。そうした王権の脆弱さが引き起こしたのが、有力按司間の争いである護佐丸・阿麻和利の乱である。
 乱の当事者のうち、護佐丸は尚巴志時代、第一尚氏王朝の成立に貢献した古参の功臣、阿麻和利は尚泰久王の擁立に寄与し、尚泰久王の娘婿でもある有力者であった。乱の発端は阿麻和利が護佐丸の謀反を王府に讒言し、王府の命により護佐丸を滅ぼしたことにあった。
 しかし、これは王位簒奪を狙う阿麻和利の策謀であったようで、護佐丸を滅ぼした阿麻和利は返す刀で首里を攻略するが、王府軍の反撃にあい、滅ぼされた。結果として、王権を脅かす二人の有力按司を両成敗的に排除することになり、王権はひとまず安定化に向かうはずであった。
 尚泰久王は乱から二年後の1460年に没したが、その後は息子の尚徳が円滑に継承した。第一尚氏王朝が名実共に統一王朝となったのは、この時期と言ってよいであろう。がしかし、尚徳王こそは、第一尚氏王朝最後の王となってしまうのである。