歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第2回)

一 尚思紹王(1354年‐1421年)/尚巴志王(1372年‐1439年)

 尚思紹尚巴志父子は、琉球を初めて統一した第一尚氏王朝の創始者とされているが、厳密には父尚思紹王の代では統一は完成しておらず、統一は2代目尚巴志王の功績である。尚思紹王尚巴志王によって追贈的に初代国王に位置づけられたものと思われる。
 統一前の尚一族は、いわゆる三山時代の一つ南山王国の有力地方領主である佐敷按司であった。伝説によれば、尚思紹王の父佐銘川大主は北部の伊平屋島から佐敷へ移住してきた漁師で、地元豪族の女婿となったことから、一族栄進の道が開かれた。
 南山は元来、承察度(大里)按司が統一した地方王国であり、たびたび明に朝貢冊封を受けるなど最強勢力を誇ったが、王室の内紛・失政などに乗じて尚父子が実力をつけ、鼎立する中山王国及び北山王国を順次滅ぼしていった。
 すでに中山王となっていた尚思紹はしかし、全島統一の道半ばで1421年に没したため、後は息子の尚巴志に託された。彼は29年に南山王国最後の王他魯毎を打倒して、三山統一事業に成功したのだった。
 尚巴志王の実質在位は10年とさほど長くなかったが、この間、彼は明人の懐機を国相に起用し、元は中山王国の王城だった首里城の拡張や那覇港の整備など、王国の政治経済の基礎を築いたほか、前代からの明への朝貢政策を継承しつつ、日本や朝鮮、南方方面との貿易を進め、港市国家としての繁栄の道を開いた。
 とはいえ、三山時代の分裂が完全に止揚されたわけではなく、三山残党や地方に割拠する按司たちの勢力は残されており、真の意味での統一王国を確立するには在位期間が明らかに不足していた。

二 尚忠王(1391年‐1444年)/尚思達王(1408年‐1449年)

 第一尚氏王朝が安定を見るためには、尚巴志王の子孫が長生して建国事業を継承する必要があったが、不幸にしてそれはかなわなかった。
 尚巴志を継いだのは次男の尚忠だったが、彼は在位五年にして没している。尚忠王は祖父の代で北山王国を滅ぼした後、北山監守に任ぜられるなど早くから実力を認められていたようで、即位後も父の事業を継承し貿易を振興するなどの業績を見せ始めた矢先の死であった。
 次いで尚忠王の子尚思達が王位を継承するが、彼もまた在位四年で死去した。しかも継嗣を残さなかったため、後は叔父の尚金福が継いだ。尚思達王の事績は奄美大島の征服以外にほとんど伝わっていないところを見ると、さほど強力な王ではなかったと考えられる。
 こうして、第一尚氏王朝はその草創期に短命・弱体の王が続いた。このことは、王朝自体の命脈の短さを予想させるものであった。