歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

仏教と政治―史的総覧(連載第19回)

六 中国周辺国家と仏教

日本への伝来
 日本への仏教伝来は、中国から直接ではなしに、百済を通じた間接的な伝来であった。当時、日本は大陸中国への朝貢が途絶えた状態であり、中国からの直接の伝来ルートがなかった一方で、百済とは極めて親密な関係にあった。
 もっとも、正確な伝来年度については公式史書日本書紀』が記す552年説と聖徳太子伝である『上宮聖徳法王帝説』が記す538年説とがあるが、両説は必ずしも矛盾しない。伝来を一回きりと考える必要はないからである。どちらにせよ、当時の百済王は自身も熱心な仏教徒として崇仏政策を主導した聖王であった。
 ちなみに538年は百済が遷都し、国号を「南扶余」に改めた記念年であることから、仏教公伝年としてはよりふさわしく見える。少なくとも、数次にわたる百済経由の仏教伝来の初年度を538年と見る余地は十分にあろう。
 いずれにせよ、日本では、仏教の受容をめぐり、廃仏派と崇仏派の豪族間で他国では例を見ないほど激しい政争が発生し、歴史を変える動乱に発展する。このことは、それだけ当時の倭国では王権が弱く、豪族の割拠体制であったこと、また伝統的な神道の力が大きかったことを意味している。こうした神道の排撃力は再び神道が政治の前面に持ち出された近代の王政復古期にもう一度発現する。
 ともあれ、古代の仏教動乱は崇仏派筆頭格の蘇我氏の勝利と専制支配の確立に終わる。そして蘇我氏が氏寺として日本最初の仏教寺院法興寺を建立したことが、日本仏教の最初の礎石となった。
 ちなみに、近年の研究で、法興寺百済後期の代表的な寺院である王興寺と瓦の文様や塔の構造といった主要な点で一致しており、同一の建築技術者によって建立された可能性が高いことがわかった。これは、百済蘇我氏を通じていかに初期日本仏教において強い影響力を持ったかを示している(その理由に関する管見拙稿参照)。
 その後、蘇我氏の専横体制の下、法隆寺をはじめとする複数の寺院の建立プロジェクトが強力に推進され、仏教は国家公認の宗教としての地位を高めていった。中央・地方の豪族らも、氏族の安泰繁栄を祈願する私的な氏寺―中世ヨーロッパの貴族私有教会に似る―の建立をこぞって競い合った。
 こうした仏教政策は蘇我氏支配が打破されたいわゆる大化の改新クーデターを経ても基本的に維持され、7世紀後半、律令天皇制国家の建設に乗り出す天武‐持統両天皇の時代に、朝廷の保護・監督を受ける官寺の制度にまとめられていく。これは奈良時代以降のいわゆる鎮護国家体制の土台となった。
 ただ、飛鳥時代の仏教教理はおおむね百済高句麗新羅を中心とした朝鮮半島からの渡来僧によって担われており、中国からの渡来僧、あるいは中国への留学僧によって日本仏教が教理面でも発展していくのは、奈良・平安時代以後のことである。