歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

仏教と政治―史的総覧(連載第18回)

六 中国周辺国家と仏教

朝鮮への伝来
 中国の東で接する朝鮮半島への仏教の伝播も比較的早くに起こっている。中でも今日の中国東北部までまたがる広域な領土を持った高句麗である。高句麗には、小獣林王時代の372年、当時五胡十六国中最有力だった前秦の皇帝苻堅が僧の順道とともに仏像・経文を送ったのが初の仏教伝来とされている。
 これに続いて、わずか2年後の374年には南朝東晋からも僧阿道が派遣されてきたという。前秦東晋からの相次ぐ仏教伝来は、当時大陸の覇権を争っていた両強国による高句麗取り込みのための政治工作の一環もあったと考えられるところである。
 高句麗では、小獣林王から故国壌王、広開土王と領土拡大が続いた全盛時代に仏教が奨励され、王の主導で多くの寺院が建立された。こうして法制面での律令制度とともに、仏教が古代国家建設の精神的支柱となったのである。
 高句麗に遅れること10年、384年には高句麗と同系とされる南の百済にも東晋から仏教が伝来する。ただ、高句麗に比べて王権が弱く、国家の整備も遅れていた百済では、仏教の隆盛は6世紀前半、自身も篤い仏教信者であったらしい聖王の治世のことであり、この時代には百済から同盟国日本へも仏教が伝えられている。
 朝鮮のいわゆる三国時代で最も後発の新羅への正式な仏教伝来年は不詳であるが、528年、当時の法興王が仏教を公認して以後、新羅では護国仏教が隆盛化する。最終的に半島を統一することとなった新羅は唐の時代とほぼ並行したため、唐からの仏教僧の渡来が相次ぎ、特に禅宗がもたらされた。
 統一新羅滅亡後の混乱を収拾した高麗王朝は、新羅仏教を継承しつつ、鎮護国家思想の下、仏教を篤く保護したため、体制と強く結びついた朝鮮仏教はこの時代に最盛期を迎える。13世紀、モンゴルの侵攻に際して護国祈願のため製作された浩瀚な木版経典高麗八萬大蔵経はその象徴とも言える。
 こうした状況を一変させたのは、14世紀末に北方軍閥から出た李氏朝鮮王朝の廃仏政策である。高麗支配層の解体を目指した朝鮮王朝は、儒教を統一的な国学・国教と位置づけ、16世紀初頭にかけて、数次に及ぶ系統的な寺院の閉鎖を通じた仏教弾圧策により、朝鮮仏教を著しい衰退状況に追い込んだ。それは政治的・思想的な弾圧にとどまらず、仏教僧を最下層の被差別民にまで落とすほど社会経済的な構造にも踏み込んだ徹底的な廃仏策であった。
 とはいえ、高麗時代に知訥が創始し、民衆仏教として民間に浸透した禅宗系の曹渓宗は閉塞しながらも地下で生き続け、朝鮮王朝末期には、仏教復興の中心的な存在となった。その後、大日本帝国の支配と独立をくぐり抜け、曹渓宗は今日の韓国仏教界における最大勢力を占めるに至っている。