歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日本語史異説―史的総覧(連載最終回)

十二 悲しき言語―日本語

 現存言語で、1億人を超える使用者を持ちながら、一国でしか公用語として用いられていない言語は日本語くらいしかない。インドネシア語も類例に属するが、使用者の多くは第二言語としてのものである。その意味で、日本語は世界最大級のローカル言語と言えるかもしれない。
 そのうえ、海外の諸言語の中にも、通訳をほとんど必要としないレベルで近縁的な言語が存在せず、明白に同系と証明される仲間の言語を見出すこともできない。*その中で、コリア語は相対的に最も近く、広域分類すれば同系にくくることもできるが、語彙的な差異は大きく、通訳なしには通じ合わない。

 こうした事情から、日本語使用者の外語学習も、また外語使用者の日本語学習もともに容易でない状況に置かれている。このことは、日本語を母語として成長した人にとっては、国際的コミュニケーションを困難にし、世界から孤立してしまいやすいという重大な不利益をもたらす。少なくとも、現状、日本語を母語とすることには、国際コミュニケーション上全くメリットはないと言ってよい。1億超の使用者を持つ大言語でありながら、なんとも悲しい位置づけにあるのが日本語である。当連載の副題を「悲しき言語」とした所以である。

 しかし、共通語としての日本語は日本列島内で極めて強固に定着しており、かつそれは新たな時代を迎えて変容し続けている。そこで、日本語が持つ特に不利な特徴のいくつかが今後どのように変容するか、最後に簡単な展望を示してみよう。

三種文字:
 基本的に漢字・平仮名・片仮名の三種文字を併用する稀有の文字体系は、変容する気配がない。おそらく、全文仮名だけで表記するという最も簡明な書記法は、仮名が「女文字」と考えられていた時代からの影響で、いささか稚拙とみなされるため、普及しまい。
 他方、明治時代以来のローマ字表記論も現在では下火であるうえ、ローマ字表記は同音異字の多さという難点をクリアすることが難しく、これをクリアできる漢字の使用は廃止されないだろう。
 もっとも、漢字はパソコンの普及により、記憶しておらずとも、自動変換による表示が可能となり、漢字は書く以上に読む文字となりつつある。このことは、漢字学習の困難を少なからず軽減するだろう。
 とはいえ、パソコン時代にあって、三種文字併用表記はキーボード入力に際し、文字選択の煩わしさという問題を抱えている。

敬語体系:
 敬語体系も基本的には不変であろう。ただ、今日、敬語使用場面が慣習上減少し、若年者の間では「ため口」のような言語慣習も生まれてきている。現時点ではまだ非礼とみなされがちなこうした敬語の省略現象がどこまで進行するかは微妙だが、全般に、複雑な敬語体系の簡素化が進む可能性はある。このことをもって従来、敬語体系が規律してきた上下の垂直的な人間関係が変容し、より水平な社会編成へ移行しつつある兆候とみなし得るなら、必ずしも悪しき現象ではないだろう。

ジェンダー分割:
 他の言語では類例を見ない「男言葉」「女言葉」の峻別も、日本社会におけるジェンダー差別の解消を阻害してきた一面があるが、近年は女性が「女言葉」から脱却し、よりユニバーサルな言語使用をし始めているように見える。*他方で、あえて「女言葉」を使うことを売りにする男性芸能人も存在するが、これはあくまでも芸能的な言葉遣いであり、一般化しているとは言えない。このことは両性平等の一定の進展を示すとともに、言語のジェンダー分割の相対化は両性平等を促進するだろう。

情感性:
 従来、「日本語は論理的でなく、情感的である」といった評価もなされてきたが、元来、これには疑問もある。少なくとも、多くの漢語と外来語とを取り込んだ現代日本語はむしろ、かなり厳格に論理的な文章表記ないし発話を可能にする条件を備えている。
 それを阻むものがあるとすれば、明治以来の言文一致改革が行き過ぎて、文章語が口語化し過ぎたせいかもしれない。これを再改革するには、言文峻別に戻すところまではいかないが、口語体とはいちおう区別された正統的な文章体を確立することである。当ブログが、そのささやか過ぎる実験となることを願って、連載を終える。(了)