歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日本語史異説―悲しき言語(連載第21回)

十 帝国言語の時代

 標準語という形で、さしあたり国内の方言抑圧に成功した日本語は、続いて海外に進出していく。これは、明治政府の帝国主義的膨張に伴う言語輸出として行なわれた。その嚆矢となったのは日清戦争勝利の結果、獲得した台湾であった。琉球語を「外国語」とみなす場合には、琉球「処分」後の琉球を嚆矢とみることもできるが、当連載では琉球語を日本語の強方言とみなすため(拙稿参照)、琉球は方言抑圧の事例とみなすことになる。

 台湾は日本の帝国主義的植民地支配の最初の実験場でもあったが、言語政策においてもそうであった。日本は台湾統治開始直後にいち早く国語伝習所(後の公学校)を設置し、日本語普及政策の中核機関とした。これは、植民地経営において、現地人教育を通じ「国語」として標準日本語を普及させる政策であり、強制同化型植民地経営の特徴を示すものであった。
 このような台湾における言語強制を伴う日本独特の同化型植民地支配は、1910年の韓国併合後の韓国でも応用されることとなった。ただ、一方で、戦勝の結果獲得した台湾とは異なり、外交的・軍事的圧迫により併合を実現させた韓国では、慰撫的なバランス策として、「文化政治」が強調され、当初はコリア語の識字にも尽力するなどの二重政策が採られた。*この時代、コリア語は日本語の一分派であると主張する「日鮮同祖論」が言語学者・金沢庄三郎によって提唱されたが、これは比較言語学的な証明を欠いた謬論であり、二重政策下で日本語の優位性を強調するイデオロギーとして利用されただけであった。

 戦間期の1922年以降、第一次世界大戦敗戦国ドイツから継承した旧ドイツ領南洋諸島委任統治が開始されると、南洋諸島でも公学校を通じた日本語教育の手法が踏襲され、この地域にも日本語が普及していった。特に南洋庁が置かれたパラオでは、オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語派)に属するパラオ語に日本語からの借用語が多く摂取され、パラオ語は今日でも、日本語と系統を異にする言語にあって最も日本語の影響を蒙った言語となっている。

 日中戦争・太平洋戦争 に突入すると、台湾や朝鮮でも臨戦体制を固めるため、皇民化教育が徹底された。台湾では台湾語を含む現地語の使用が禁じられ、朝鮮でも学校教育からコリア語が排除されていった。また創氏改名のように、個人のアイデンティティに関わる氏名すらも日本人化するなどの民族抹殺政策が指向された。
 ちなみに、日中戦争の「成果」でもある日本の傀儡国家・満洲国では、建て前上は複数言語主義ながら、日本人が支配する官庁・軍など公的機関においては、事実上日本語が優先公用語であった。
 また太平洋戦争末期に占領し、軍政下に置いた東南アジア諸国地域でも、軍政の一環として日本語教育が実施されたほど、日本帝国主義は日本語の輸出に極めて熱心であったことが特徴的である。

 こうして、近世以前には日本列島の「島言葉」に過ぎなかったローカル性の強い日本語が、帝国主義的膨張を通じて、20世紀前半期には一挙にアジアの広範囲に拡散・普及することになったのであるが、それも第二次世界大戦での敗戦により崩れ去り、また元の「島言葉」に還っていったのである。

 同化教育によって日本語を強制された台湾や朝鮮では、その反動から解放・独立後、日本語が公用語として残されることはなかった。この点は、西欧の植民地支配から独立後の新興国家の多くで英語や仏語がなお公用語として残されているのと比較しても、対照的である。
 唯一の例外として、前出パラオの一州(アンガウル州)では州憲法の規定により日本語が公用語の一つに掲げられており、現時点で、日本国外において日本語が公用語とされている唯一の事例となっている。ただし、同州でも日本語が日常的に使用されているわけではなく、あくまでも憲法上の標榜にとどまる。

 日本語の帝国言語の時代はすでに何世代も過去のこととなり、忘れられがちであるが、日本語が正当な形で国際語になり損ねる契機ともなった不幸な時代として、日本人・日本語話者は努めて冷静にこれを見据える必要があるだろう。