歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日本語史異説―悲しき言語(連載第13回)

四 倭語の形成⑥

 前回まで、倭語の形成過程で重要な役割を果たした流入言語として伽耶語と百済語とを見たが、実はもう一つ、高句麗語がある。前回見たとおり、百済語は高句麗語の百済方言という性格を持ったが、高句麗語そのものも日本列島に流入している。

 とりわけ東日本、中でも両毛地方を中心とした関東から信州にかけてその傾向が顕著に見られる。この点、拙論『天皇の誕生』でも論じたように、この地方には高句麗的特徴を備えた方墳(その変容形態としての前方後方墳を含む)や、積石塚を墓制とする渡来勢力の足跡が多く見られる。
 詳しくは上掲論稿記事を参照されたいが、この推定高句麗渡来勢力は、4世紀後葉に高句麗百済に惨敗し、一時国力が衰退した時に相当数の流民が生じ、かれらがはじめ能登半島付近に漂着し―実際、能登半島付近にも高句麗的特徴を備えた方墳が分布している―、そこから関東一円や信州にも拡散、東国以来の古い在地勢力を征服し、混血・土着していったものと見られる。
 特に信州の千曲川流域は高句麗が427年に平壌に遷都する以前の墓制の特徴を濃厚に持つ積石塚古墳が密集するところであり、軍事的にも相当強力な地域王権に発展したと考えられる。その結果、言語学的にも、信州の倭語の形成に関しては高句麗語の基層性を特殊に考慮する必要があるかもしれない。
 さらに、推定高句麗勢力の足跡は山陰地方の島根東部から岡山の久米郡にかけても見られる。この地域の高句麗勢力と先の東日本のそれとの関係性などは全く不明であるが、久米の勢力は後に畿内へ東遷していった伽耶系勢力に随行した可能性がある(拙稿参照)。だとすると、畿内百済語が流入する以前に、その祖形とも言える高句麗語が畿内に持ち込まれていた可能性も想定できることになる。

 こうして地域限定的に流入してきた高句麗語は、在地の既存弥生語を置換してしまうほどに地域の支配的言語となったのかどうか、あるいは伽耶語のように弥生語と放散的に接合されるにとどまったかのかは不明である。
 ただ、高句麗的特徴が濃厚な信州(千曲川流域)では高句麗語の影響は強く、ある種の高句麗語倭方言のような転訛言語が後世まで残された可能性も想定できる。また関東に形成された東国方言にも、高句麗語的痕跡は認められたかもしれない。

 いずれにしても、高句麗語と百済語は同一言語の方言とも言える関係にあったから、どちらが基層にあったにせよ、倭語としての大差はなかったと考えることもできるであろう。このことは、倭語の東西方言の近似性として反映されてくるだろう。