歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(15)

 9・11事件とその後

9・11事件と対米戦争
 内戦中は米国からも支援を受けたムジャーヒディーンの外国人義勇戦士から出たビン・ラーディンを指導者に戴くアル・カーイダが過激な反米活動に転じた契機は、91年のイラク戦争湾岸戦争)で、サウジアラビアが米軍の駐留を認めたことへの反発にあったとされる。
 ビン・ラーディンはサウジアラビア王家と対立して祖国を出国した後、当初は89年以来イスラーム原理主義的な軍事政権が続いていたアフリカのスーダンを拠点としたが、スーダンから追放されると、アフガニスタンのターリバーン政権の客将的な立場で招かれ、アフガンを拠点とするようになった。
 ビン・ラーディンはターリバーン最高指導者オマル師とも個人的な親交で結ばれており、政治・軍事顧問的な役割も果たしていたと見られるため、ターリバーンとアル・カーイダの一体性が強まり、ターリバーン政権は正確には「ターリバーン‐アル・カーイダ連合政権」という特異な性格を帯びていたとも言える。
 アル・カーイダアフガニスタン移転以前の93年の世界貿易センタービル爆破事件を皮切りに、国際的な反米破壊活動を本格化し、アフガン移転後も引き続き、駐ケニアタンザニア米大使館爆破事件(98年)や米艦コール襲撃事件(00年)などを次々と引き起こした。
 ビン・ラーディンは98年と00年の事件で指名手配され、国連安保理からもターリバーン政権に対して身柄引き渡し要求決議がなされたが、政権は頑強に拒否した。そうした中、01年9月、未曾有の米国中枢同時多発爆破事件(9・11事件)が発生する。
 この事件でアル・カーイダは明確な犯行声明を出さなかったにもかかわらず、米国政府は即座にアル・カーイダの犯行と断定し、ターリバーン政権に改めてビン・ラーディンの引渡しを求めた。しかし、ターリバーン側は明確な証拠の欠如を理由に拒否した。
 こうした経緯からこの事件をめぐっては米国の自作自演説まで提起されたが、ターリバーン側が改めてアル・カーイダ庇護の強固な姿勢を示したことは、米国の軍事攻撃に大義名分を与えることとなった。
 米国とその有志連合軍は事件から一か月も経たない10月上旬に、アフガン攻撃に着手した。この合同軍事行動はクウェートを侵略したイラクを相手取った湾岸戦争時の多国籍軍によるものと比べても法的根拠は薄弱であったが、単なる爆破テロではなく、歴史上初の米国本土中枢への航空(機)攻撃という手法が拡大解釈されて「侵略」とみなされたのである。
 ともあれ、受けて立ったアフガニスタンにとっては、19世紀の英国、20世紀のソ連に続き、今度は米国という大国を相手取った戦争であった。しかし、今度の戦争は最も短期で決着せざるを得なかった。ターリバーン政権の軍事力は余りにも貧弱で、圧倒的な航空戦力を擁する連合軍には太刀打ちできなかったからである。
 この戦争は二か月で勝敗がつき、ターリバーン政権はあえなく崩壊した。だが、政権最高指導者オマル師もビン・ラーディンも捕らえることができなかったという点では、有志連合は「敗北」したとも言える。
 ここには、アフガニスタンの歴史地理的な特殊性が関わっている。19世紀に英国が戦略的に引いた旧英領インドとアフガニスタンの分割線デュアランド・ラインは有名無実化しており、ターリバーンもアル・カーイダも現在はアフガニスタンパキスタン間の国境線となった同ラインを越えてパキスタン側のパシュトゥン人居住地域へ退避し、活動を継続したと見られるからである。
 こうして、9・11事件後の米国もまた、旧ソ連とは異なる形ながら、アフガニスタンとの泥沼の紛争に引き込まれていくことになるのである。それは同時に、全世界がテロリズムとそれへの対抗戦争(対テロ戦争)に巻き込まれる時代の始まりであった。