歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(14)

[E:four] イスラーム主義の台頭

[E:night]ターリバーンの支配
 ターリバーンの起源については半ば伝説化されており、詳細は不明であるが、ムジャーヒディーンから派生してきたことは間違いない。その初代最高指導者ムハンマド・オマルはパシュトゥン系元ムジャーヒディーン戦士で、戦闘で右目を失明したまさに独眼流の伝説的戦士であった。
 その生涯も詳細不明だが、主にパキスタンイスラーム宗教思想を身につけ、非公式な宗教指導者となり、ムジャーヒディーン内部の抗争から第二の内戦が本格化した94年頃、同志らとともに郷里に近いカンダハールで活動を開始したとされる。
 そのようなマイナーな集団がなぜわずか数年で政権勢力にまで成長できたのかも謎だが、前回言及したように、旧ムジャーヒディーン内最大勢力だったヘクマティヤル派を見切ったパキスタン諜報機関が支援に乗り出し、当初は米国さえも代替勢力として好意的に見ていたことが決定的だったと考えられる。
 他方で、ラバニ大統領の軍閥連合政権はすでに内部崩壊しており、ターリバーンへ鞍替えする戦士らも相次ぎ、急速に勢力を拡大したターリバーンは早くも96年9月には首都カーブルを制圧して政権を掌握、オマルを指導者とするアフガニスタンイスラーム首長国の樹立を宣言する。これは、歴史的に見れば、1973年共和革命以来の近代化の流れを逆流させるイスラーム宗教反動としての意義を持った。
 とはいえ、この「国」を承認したのは、後ろ盾のパキスタンのほか、サウジアラビアアラブ首長国連邦のみであり、国際社会においてはヘクマティヤル派を除く旧ムジャーヒディーン軍閥連合が一つにまとまった「北部同盟」としてアフガニスタンを代表し続けたが、「同盟」の支配地域は北部に限局され、しかも次第に狭められていった。
 ターリバーンはイスラーム法の厳格な施行を旗印とする原理主義勢力と見られ、当初は長期の内戦に疲弊した国民からも社会秩序の再建を期待されたが、その期待はすぐに恐怖に変わった。ターリバーンはカーブル制圧に際し、まだ国連施設に庇護されていた旧社会主義政権のナジブッラー元大統領を拘束したうえ、裁判なしに惨殺したように、反人道的衝動を持った全体主義的集団としての体質を露にし始めたからである。
 実際、2001年に米国の攻撃を受けて崩壊するまでの約五年間のターリバーン政権下では、娯楽や服装の規制、女性の抑圧などの全体主義的な統制がイスラームの名において大々的に行なわれるとともに、少数民族を中心とした住民虐殺や反対派に対する大量処刑などが日常化した。
 その実質をどう評価するかについて議論はあり得るが、ターリバーンが単純な宗教原理主義勢力でないことは明らかであり、パシュトゥン民族主義的傾向を含め、見方によってはイスラームの名による新たなファシズムと呼ぶべき性格を認めることもできる。
 ターリバーンはまた、スーダンからアフガニスタンに拠点を移したサウジアラビア人の元ムジャーヒディーン戦士ウサーマ・ビン・ラーディンと結託し、彼が率いるアラブ系イスラーム過激派組織アル・カーイダを庇護した。この結びつきは、ターリバーンをアル・カーイダが世界で展開する反米破壊活動のスポンサーにし、2001年の米国中枢同時多発テロ(9.11事件)というクライマックスへと導くことになる。