歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(13)

[E:four] イスラーム主義の台頭

[E:night]軍閥連合政権の破綻
 1992年4月に社会主義のPDPA政権が具体的な受け皿のないまま崩壊すると、イスラーム系反政府武装勢力ムジャーヒディーンが首都に殺到し、無政府騒乱状態に陥った。前述したように、同勢力は民族別に分かれた多数の武装集団の寄せ集めであったから、このような混乱は当然の帰結であった。
 とはいえ、この時点での反政府勢力は、多数派パシュトゥン人系の軍閥グルブッディン·ヘクマティヤルが率いるイスラーム党ヘクマティヤル派、イスラーム学者ブルハヌッディン・ラバニと軍閥アフマド・シャー・マスードが率いる少数派タジク人系のイスラーム協会を二大勢力とし、これにPDPA政権の軍人ながら半独立的な部隊を率い、政権末期に寝返った少数派ウズベク人ラシッド・ドスタムのイスラーム民族運動が合流する構図に収斂しつつあった。
 混乱の中から大統領に就任したのは、イスラーム協会のラバニである。少数民族タジク人出身ながら彼に白羽の矢が立ったのは、イスラーム主義政党として比較的古い歴史を持つイスラーム協会の権威とラバニの学識によるものと思われるが、同協会主導の政権には他派からの強い反発があった。
 とりわけヘクマティヤル派である。ヘクマティヤルは元来、PDPA党員からの転向組であったが、70年代を通じてパキスタンの軍事政権とサウジアラビアから多大の支援を受け、自派に多くの海外戦士を引き入れて最強集団を作り上げていた。当然、彼の強硬姿勢の背後にはパキスタンとサウジがあった。
 93年にはヘクマティヤルがラバニ政権の首相に就任することでいったんは妥協が成立したが、事前準備もないにわか作りの軍閥連合は当然にも長くは続かなかった。
 同年11月にヘクマティヤルは首都を離脱し、ドスタム派と同盟してラバニ政権打倒に乗り出すのである。こうして94年以降、新たな内戦が本格化し、軍閥連合政権は事実上崩壊する。今度の内戦は旧ムジャーヒディーン内部の対立に起因するものであり、内戦は第二段階に入った。
 この間、暫定政権構想を提示していた国連の介入的調停も有効に機能せず、ドスタム将軍の寝返りで首都脱出を阻止され、国連施設に逃げ込んだナジブッラー元大統領の身柄を保護せざるを得なくなったことも、国連の立場を苦しくした。
 その一方、水面下では、それまで強力に支援していたヘクマティヤルの政治手腕と宗教的な権威のなさにも失望し、彼を見限ったパキスタン諜報機関(軍統合諜報部)の支援の下、新たなイスラーム武装組織の結成がなされつつあった。これが、後に政権を握る過激集団ターリバーンである。