歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第14回)

十八 足利義晴(1511年‐1550年)

 足利義晴は、先代の10代将軍義稙に将軍の地位を追われた11代将軍義澄の子として、幼少期には赤松氏、次いでこれを下克上により破った浦上氏のもとで庇護・養育されるなどの苦労を味わった。
 そんな彼に将軍のお鉢が回ってきたのは、義稙が管領細川高国と対立して出奔・解任されたことがきっかけである。高国の政略により、義晴が次期将軍に決まり、永正十八年(1521年)、わずか10歳余りで12代将軍に就任した。
 しかし、すぐにまた苦難が始まった。細川管領家の新たな内紛に巻き込まれたのである。今度の内紛は細川政元の三養子の一人として、かつて高国と争った澄元の息子晴元と高国の間のものだった。晴元は配下の三好元長と組んで義晴より年長ながら何らかの事情で弟の扱いを受けていた義維〔よしつな〕を引っ張り出して将軍に立て替えようと画策していたのだった。
 大永七年(1526年)の桂川原合戦で高国勢が敗北すると、義晴も高国らとともに近江に逃れた。しかし、頼みの綱の高国は享禄四年(1531年)、義維の拠点であった堺への進攻に失敗し、自害に追い込まれる。
 これにより、義維が将軍に就任するのは時間の問題と思われたが、間もなく晴元と元長が対立、元長が討たれたことで事態が一変する。その状況を利用し、義晴は近江に幕府を移して、本格的な統治を開始する。
 その後、六角氏の仲介で晴元と和睦して京都に帰還するも、幕府の実権を握ろうとする晴元との主導権争いはおさまらず、義晴は京都と近江を頻回に出入りするありさまであった。そうした中、天文十五年(1546年)に息子の義輝に譲位し、大御所となった。
 最終的には晴元と和睦するが、この頃晴元配下から下克上的に台頭した三好長慶(元長嫡男)に晴元が敗れると、再び近江に逃れた義晴は京都奪回作戦のため出陣するも、その途上で病没した。
 こうして義晴は25年間在位したものの、その大半を都落ちと入京の反復に費やし、政権を安定させることはできなかった。時はすでに戦国時代に突入しており、将軍自身が戦争に明け暮れる戦国大名化していたのだった。
 ちなみに、義晴の同世代人としては、織田信長の父で織田氏弾正忠家)台頭の基礎を築いた織田信秀や、徳川家康の祖父で、短い生涯の間に松平氏を躍進させた松平清康後北条氏全盛期を築いた後北条氏3代目北条氏康らがいる。
 義晴自身は幕府機構の再編に取り組む一方、外交政略の手腕や武将としての技量も備えており、決して無能な将軍ではなかったが、戦国大名勃興期と重なる時期の足利将軍としての宿命から逃れることは最後までできなかった。