歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第12回)

十四 足利義澄(1481年‐1511年)

 足利義澄は、明応二年(1493年)、細川政元が主導したクーデター・明応の政変により先代で従兄に当たる10代将軍足利義材〔よしき〕が追放された後を受けて11代将軍に擁立された。しかし、このような不正常な就任経緯からも、彼は管領として新政権を独裁する政元の傀儡将軍にすぎなかった。
 元来、義澄は堀越公方足利政知の子であったが、嫡男ではなかったため、早くに僧籍に入っていたところを将軍として担ぎ出されたのだった。ちなみに政知の嫡男だった茶々丸は年少時から素行不良で、長じてからも暴虐のため家臣団の支持を失い、当時伊豆への進出を狙っていた北条早雲率いる反乱軍によって征伐されている。
 これは堀越公方という元来基盤の弱い足利将軍分家を転覆した地方的な事変にすぎないが、最初の戦国大名とも称される早雲を祖とする後北条氏が東国へ浸透していくステップとなる出来事でもあった。
 さて、成長した義澄は次第に傀儡の立場を脱しようとしてしばしば政元との関係がこじれ始めていたところ、永正四年(1507年)、細川氏家督争いの結果、政元が暗殺されてしまう。これは修験道者であった政元が独身で実子を持たなかったことに加え、競合する三人の有力な養子を迎えたことから招いたお家騒動であった。
 この事変は義澄にとっては幕政の実権を細川氏から取り戻すチャンスともなり得たが、それを生かすことはできなかった。永正五年(1508年)に、義尹〔よしただ〕に改名していた前将軍を庇護・擁立する周防の守護大名大内義興が上洛軍を差し向けたため、義澄は近江に逃亡、あっけなく将軍の座を追われた。
 それでも義澄は将軍復帰の執念を燃やし、近江を拠点に反攻の機を窺い、永正八年(1511年)には幕府軍との合戦に備えていたところ急死、復帰の夢はかなわなかった。

十五 足利義稙(1466年‐1523年)

 足利義稙〔よしたね〕は当初義材を名乗り、10代将軍に擁立されたが、先述のように明応の政変で地位を追われ、諸国を下向して回る羽目となった。この間、義尹に改名した彼は将軍復帰への執念を持ち続け、最終的には周防の大内氏の軍事力に頼って上洛、念願の将軍復帰を果たしたのだった。
 とはいえ、上述のように義澄もまだ反攻の機を窺い、武力衝突が続いたため、彼の第二次政権がいちおう確定するのは、義澄が死去して以降のことであった。
 義尹は永正十年(1513年)以降、義稙と再改名、実権を掌握しようと努めるも、幕政は細川政元の養子の一人で家督争いに勝利して管領職に就いていた細川高国と義稙復帰への貢献から事実上のナンバー2に就いていた大内義興に握られており、不満から義稙は一時、近江へ出奔したほどであった。
 しかし永正十五年(1518年)に義興が諸事情から領国へ帰国すると、政元の三養子の一人で、高国の政敵細川澄元が挙兵した。高国はいったん敗れ、近江に逃亡するが、これを実権掌握の機会と見た義稙は澄元に接近していた。しかし反攻に出た高国が澄元を追い落とし、復権を果たしたことで、再び形勢は逆転する。
 これ以降、義稙と高国の関係は決定的に決裂、大永元年(1521年)に義稙はまたしても堺へ出奔した。これは天皇即位式直前の職務放棄となり、天皇の怒りを買ったことから、高国はこれを名分として義稙を廃し、義澄の遺児義晴を12代将軍に擁立することができた。
 こうして、義稙は再び将軍の座を追われ、淡路島に逃れてなおも将軍復帰の機会を狙うが果たせず、最後は澄元の本拠でもあった阿波に逃れて大永三年(1523年)に客死した。
 このように、義稙と義澄が交互に擁立された15世紀末から16世紀初頭にかけての時期は将軍家と管領細川家の家督継承争いが絡み合い、応仁の乱で低下した幕府の権威の凋落は明白となった。
 とはいえ、この時点での戦乱は限られており、国政はまだ幕府を中心に動いていたが、将軍は管領をはじめとする諸公の傀儡的な存在に墜ち、地方の守護大名たちも次第に幕府を離れて、独自の領国経営に着手し始めていた。ある意味では、日本型の軍閥封建制が確立されていく始まりの時期でもあった。