歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(8)

[E:two] 独立アフガニスタン

[E:night]1973年共和革命
 1963年、ザーヒル・シャー国王は当時のアフガニスタンでは急進的すぎる近代化改革を推進していた従兄のダーウード首相を追放して、改めて親政を開始するが、それによって近代化路線が全面撤回されたわけではなく、スピードを落とされただけであった。
 64年には立憲君主制を基調とする新憲法が制定された。この憲法は西洋で教育された近代主義者たちにより起草され、普通・自由選挙に基づく議会や市民的権利、女性の人権などの西欧ブルジョワ憲法の諸要素を一応備えていた。
 しかし、当時のアフガニスタンでは西洋的教育を受けた者は政界でも少なく、この憲法を政治行政上使いこなすだけの土台を欠いていたため、民主化は円滑に進まなかった。王族が首相に就く慣例は排除されたが、政府‐議会関係が紛糾し、頻繁な内閣の交代が起き、安定した政権運営が妨げられた。
 そのように未熟で不安定な立憲政治が10年続いた後、ついに長い王制の終わりが訪れた。病気治療などのため、ザーヒル・シャーがイタリアを訪問中の73年、ダーウードが無血クーデターで政権を奪取したのだった。
 ダーウード自身王族の一員だったが、彼は新国王に即位するのでなく、王制廃止と共和制移行を主導し、自ら初代大統領に就任した。このように73年クーデターは単なる政権交代ではなく、政治制度そのものの変革にまで及んだため、共和革命の意義を持った。イスラーム王朝で、王族が共和革命を主導するのは極めて異例のことであった。
 大統領としてのダーウードは首相時代の政策の修正をいくつか試みている。一つは、ソ連との関係である。軍の近代化は依然として未完の課題だったが、そのためにダーウード大統領はソ連よりもエジプトからの援助に乗り換えようとした。
 当時のエジプトはソ連とは距離を置く独自のアラブ社会主義を追求しており、社会主義的傾向を帯びていたダーウードにとって、同じイスラーム圏に属するエジプトはいろいろな意味でモデルとして想定されていたように見える。しかし、このような「ソ連離れ」はソ連の心証を害し、ダーウード政権の命脈を縮める遠因となる。
 もう一つは、パシュトゥン民族主義である。政権発足当初こそ、彼は再びこれを蒸し返し、パキスタン領内のパシュトゥン人勢力を煽動してパキスタンと緊張関係に陥ったが、次第に当時のパキスタン側のブット左派政権との妥協に動いていった。
 一方、近代化推進路線は変わらず、むしろ大統領権力を使ってよりいっそう大規模な社会変革を試み、これに反発した宗教保守勢力の反政府運動を厳しく弾圧した。だが、外交面ではイスラーム保守主義サウジアラビアに接近するなど、一貫しない面があった。
 ダーウード政権が短命に終わる直接の要因となったのは、マルクス主義政党の人民民主党との関係であった。同党はザーヒル・シャー親政時代の65年に結党された政党で、73年革命でもダーウードを支持した連立与党的な勢力だった。
 しかし、ダーウード自身は社会主義的傾向を持ちながらも、マルクス主義者ではなく、74年には自身の政党として国民革命党を立ち上げ、一党支配体制の構築を狙っていた。そのため、ダーウードは次第に人民民主党を遠ざけ、最後には弾圧を仕掛けるのだが、その時機遅れが命取りとなる。