歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第9回)

十 足利持氏(1398年‐1439年)

 足利持氏は、足利義持から義教にかけての時代に並立した第4代鎌倉公方である。先代鎌倉公方の父満兼の死去に伴い、12歳ほどで鎌倉公方となったため、当初は関東管領上杉氏憲(禅秀)が実権を持った。
 この時期の事績としては、奥州で発生した伊達氏の反乱鎮圧がある程度だが、これも基本的には禅秀主導によるものであった。しかし、長じた持氏と禅秀の関係は間もなく険悪化する。応永二十二年(1414年)には禅秀は管領辞職に追い込まれた。
 これに対して、禅秀とその同盟者で持氏の叔父に当たる足利満隆が決起したクーデターが、応永二十三年(16年)の上杉禅秀の乱である。当初、持氏は鎌倉を追われ、駿河まで敗走するが、この時は幕命を受けた今川氏などの援軍を得て反転攻勢し、鎌倉奪還に成功した。
 しかし、この乱の処理をめぐり、持氏が苛烈な報復と粛清で臨んだことが、幕府との対立原因となる。特に将軍家と結ぶ京都扶持衆で、禅秀側についた常陸の小栗氏が戦後の懲罰として所領の大半を没収されたことに反発し、応永三十年(23年)に反乱を起こすと、持氏は小栗氏討伐に仮託して、関東の親幕府派一掃を図ったため、幕府は持氏討伐軍の派遣も検討するが、この時は持氏の謝罪で収拾された。
 しかし応永三十五年(28年)、6代将軍・義教がくじ引きで決定されると、持氏の不満は爆発した。元来、持氏は名前の偏諱を受けていた4代将軍・義持の猶子となっており、大御所の義持には早世した5代将軍・義量以外に世子がなかった以上、自身が将軍継承者となるべきだとの思いがあったと見られる。
 そのため、彼は自ら京都へ乗り込むことを計画するが、時の関東管領・上杉憲実の諫言により思いとどまった。しかし以後も義教を軽んじ、鎌倉府を事実上幕府から自立化させる動きを見せていった。実際、持氏が将軍に就いていれば、鎌倉府との統合も進み、永享の乱はもちろん、その後再興された鎌倉府・古河府と幕府の分裂も起きていなかったかもしれない。
 そのような東西分裂の緊張状態が10年にわたって続いた後、ついに衝突の時が来た。事の発端は、持氏が嫡男の賢王丸元服に際して、将軍から名前の偏諱を受ける慣例に反し、義久と名づけたことにあった。些事のようであるが、主従関係が基本の封建時代にはこれだけでも大事であった。
 このような慣例無視を諌めていた管領の上杉憲実は元服式をボイコットし、領国の上野国へ退いたが、これを反逆とみなした持氏が憲実討伐軍を差し向けた。この一件を鎌倉府の内紛として収拾することもできたはずだが、将軍義教はこれを持氏討伐の好機とみて、介入した。
 彼は憲実救援を名分としつつ、持氏を朝敵として正式に討伐対象とし、幕府軍を差し向けた。部下の裏切りもあって敗れた持氏は出家し、鎌倉の永安寺に蟄居となったが、義教の命を受けた憲実の兵に攻め込まれ、息子の義久ともども自害に追い込まれた。永享の乱である。
 持氏・義久父子の死によって、鎌倉府はいったん崩壊する。その二年後の永享十二年(40年)に持氏の別の遺児らを擁した結城氏が蜂起し、いわゆる結城合戦が発生するが、これもすぐに鎮圧され、幕府の最終的勝利が確定する。
 一方、前回触れたように、翌年には将軍義教も赤松父子の手により暗殺されることになるが、その舞台となったのは、まさに結城合戦の戦勝を祝するとの名目で仕組まれた宴席であったのは、皮肉なことである。