歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(7)

[E:two] 独立アフガニスタン

[E:night]ザーヒル・シャー時代
 1933年にモハンマド・ナーディル・シャーが暗殺された後を受けて、新国王に即位したザーヒル・シャーの40年に及んだ治世は大きく三期に分けることができる。
 その第一期は、19歳での即位後、二人の叔父に実権を預けていた53年までの20年間、第二期は従兄に当たるモハンマド・ダーウードが実権を掌握した63年まで、第三期は、ザーヒル・シャーが親族に依存せず親政を開始し、共和革命で王位を喪失する73年までの最後の10年間となる。
 このザーヒル・シャーの40年間は総体的に、アフガニスタンが近代国家として漸進的に整備され、安定的な王制の下、ある程度までの発展と繁栄を享受した時代として記憶されている。
 特に最初の20年間は相対的に高度の安定期であった。この時代は、モハンマド・ハーシム・ハーンとその後を継いだシャー・マフムード・ハーンという国王の二人の叔父が相次いで首相として政府を主導した時代であった。
 最初のモハンマド・ハーシムは先王時代からの留任であり、先王暗殺後の混乱を収拾し、ザーヒル・シャーへの円滑な王位継承を後見するうえで大きな役割を果たした。戦後の46年まで首相を務めた彼の時代は、アフガニスタンの国際化が進展した時代でもあった。
 34年には遅れて国際連盟に加盟し、国際的な認知を受けた。さらに従来あまり縁のなかったドイツやイタリア、日本からの経済援助を引き出し、経済発展の土台とした。このように経済関係では第二次大戦の枢軸同盟側と親密であったが、大戦中は中立を守り、乗り切った。
 また中央アジア方面では、33年に中華民国からの独立を目指すウイグル族キルギス族が建てた第一次東トルキスタン共和国を支援し、中央アジアに独自の勢力圏を築こうと試みたが、これは中国系回族軍閥の軍隊に破られ、成功しなかった。
 戦後、モハンマド・ハーシムを継いだもう一人の叔父であるシャー・マフムード・ハーンが53年に死去すると、ザーヒル・シャーは従兄のモハンマド・ダーウード・ハーンを新首相に任命した。ダーウードはすでに国防相や内相を歴任していた大物だったが、確信的な近代主義者でもあり、その政策や急進的な政治手法はかつてのアマヌッラー国王に似ていた。
 ダーウード政権は近代化路線を明確にし、女性の地位向上を含む社会の全般的な刷新に乗り出した。これに反発・抵抗した宗教保守勢力は容赦なく弾圧された。外交的には再びソ連に目を向け、特にソ連からの軍事援助で軍の近代化を進めた。
 一方で、ダーウードは近代的国民国家の建設のため、パシュトゥン民族主義を掲げたが、戦後英国から独立した隣国パキスタン領内のパシュトゥン人の再統合まで図ったことで、パキスタンとの摩擦を引き起こした。
 パキスタン側は国境封鎖で対抗したため、アフガニスタン側は経済危機に陥り、ソ連への経済的依存関係がいっそう強まる結果となった。1960年、ダーウードは事態打開のため、パキスタン領内に軍を侵攻させるが、大敗を喫した。
 このパキスタン危機を憂慮したザーヒル・シャーはようやく独自の行動に出る。63年、国王はダーウードを辞職させ、後任の首相に史上初めて王族ではないテクノクラート出身のモハンマド・ユスフを任命した。
 この国王自身による一種の自己クーデターにより、ザーヒル・シャーの親政が開始され、ダーウードはいったん政界を去ることになるが、彼は10年後、革命という手段で再び戻ってくる。その間のザーヒル・シャー時代第三期については、73年共和革命への伏線として、次回に回す。