歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(6)

[E:two] 独立アフガニスタン

[E:night]モハンマドナーディル・シャーの登場
 1929年の反乱で、アマヌッラー国王を打倒して政権を掌握したのは、タジク族出身のハビーブッラー・カラカーニーであったが、アフガン軍の脱走兵出身と言われる彼は冒険主義者にすぎず、王として多数派民族パシュトゥン人をまとめるような力量はなかった。
 これに対して、アマヌッラーは遠縁に当たる軍人モハンマド・ナーディルを軍司令官に任命し、反撃させた。彼はアマヌッラー時代の第三次アングロ‐アフガン戦争当時の軍司令官として功績を上げ、戦後には戦争大臣にも任じられていたが、その後アマヌッラーと対立し、亡命していたのだった。
 モハンマド・ナーディルが指揮する軍隊は装備に勝っており、パシュトゥン部族勢力の加勢もあり、29年10月までにはカーブルを制圧し、ハビーブッラー・カラカーニーを捕らえ、処刑した。こうして、ハビーブッラー・カラカーニーの簒奪王朝はわずか9か月で終焉した。
 ただし、イスラーム保守派であったらしい彼は短い治世中に、アマヌッラー改革で導入されていた女子教育や西洋式教育の廃止を決めている。このような反動化傾向はシャー王位に就いたモハンマド・ナーディルにも継承される。
 ナーディル・シャーはバーラクザイ朝開祖ドスト・モハンマド・ハーンの兄弟の血筋から王家の親類ではあったが、本来王位継承権は希薄であったため、彼の登位は実質上新王朝の開始を意味した。
 ナーディル・シャーは保守派であり、アマヌッラーの近代化政策の多くを覆し、イスラーム主義的な政策を追求した。31年に制定された新憲法でも第一条でイスラーム教を国教とすることが宣言され、立憲君主制は形骸化された。
 一方、物質面では道路整備や金融、ビジネスの発展などの改革を推進する姿勢を見せた。おそらく、ナーディル・シャーはアマヌッラーの性急な近代化・欧化政策が反乱を招いたことに鑑み、精神的にはイスラーム主義、物質的には近代主義という二元的な折衷主義の立場を志向していたものと考えられる。
 しかし、こうした保守化を基調とする統治は、王権の正統性の弱さともあいまって、必然的に宗教勢力・部族勢力を増長させ、しばしば反乱を招いたが、ナーディル・シャーは軍の増強を進め、これらの反乱を鎮圧していった。
 ナーディル・シャーの新政策が軌道に乗り始めた矢先の33年、彼は高校での式典に出席中、暗殺されてしまう。犯人はアフガニスタンでは少数派のイスラームシーア派を信奉する少数民族ハザラ族の高校生であった。ナーディル・シャーの反ハザラ政策への反感が動機と言われるが、背後関係等の真相は不明のまま、犯人は残酷な拷問の末に処刑された。
 ナーディル・シャーの死去に伴い、弱冠19歳のモハンマド・ザーヒル王子が国王に推戴される。この新国王ザーヒル・シャーの40年に及ぶ長い治世と革命によるその終焉が、近代アフガニスタンの命運を大きく揺るがすことになったであろう。