歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第7回)

八 足利義持(1386年‐1428年)/義量(1407年‐1425年)

 足利義持は3代将軍義満の子で、応永元年(1394年)に9歳で将軍位を譲られた。しかし、当然にも親政は無理で、義満が死去するまでは、父が大御所として実権を保持していた。従って、義持の将軍在位年は28年と室町将軍歴代一位の長さであったが、将軍として実権を持ったのは、義満が死去した応永十五年(1408年)以降のことである。
 義持は長じると、義満とは何らかの理由から不和になっていたとされ、義満の死後、父のいくつかの政策や趣向を覆しているが、中でも特筆すべきは、明朝との冊封外交を中止し、最終的に明と国交を断絶したことである。
 その理由は必ずしも明らかでないが、将軍が中国皇帝の封建家臣的な立場で朝貢することへの疑問があったと見られる。このことは、一方で、父義満に対して朝廷が申し出た上皇号の追贈を辞退したこととも関連し、父子間で将軍位に関する考え方の相違があったようである。推測するに、義満は将軍を「日本国王」として認証されることで、君主格に押し上げ、幕府を王朝的なものにしようとしていたが、義持のほうは、おそらく当時の常識に従い、日本の王朝はあくまでも朝廷であり、幕府は武家政権機構にとどまるとみなしていたのかもしれない。
 とはいえ、義持は、南北朝動乱を収め、有力守護大名を統制した父から安定した権力を譲られたおかげで、比較的平穏な治世を享受することができた。それでも、全く無事というわけにはいかなかった。
 義持時代の騒乱としては、義満死去から間もない応永十八年(1411年)から同二十二年(15年)頃にかけて続発した南朝残党による反乱がある。一連の事件の発端となったのは、応永十七年(10年)に南朝最後の天皇で、南北朝合一の講和にも応じた後亀山上皇が吉野に出奔したことであった。困窮が理由とされるが、その真意は不明である。ただ、この南朝残党の反乱は散発的なものに終わり、上皇も最終的には幕府の説得に応じ帰京し、ひとまず終息した。
 もう一つ、より深刻な動乱として、応永二十三年(16年)に関東で起きた上杉禅秀の乱がある。この乱は、直接的には4代鎌倉公方足利持氏と対立して事実上解任された関東管領上杉氏憲(禅秀)によるクーデター事件であり、幕府はこれに巻き込まれる形となった。
 乱自体は幕府の加勢により、短期で持氏側の勝利に終わったが、乱に関連して波及的事件があった。一つは、義持の弟・義嗣の出奔と殺害である。義嗣は元来、父義満から義持以上に寵愛され、一時は家督相続人になるかの勢いであったが、父の死後は義持から冷遇されていた。
 義嗣が禅秀と実際に内通していたかは不明だが、乱の際に義嗣が京都を出奔したことが疑惑を招き、軟禁・出家の末に義持の命で殺害される事態となった。またその取調べの結果、複数の有力守護大名や公家が禅秀に呼応し、義持打倒を図っていたとして、処分された。
 ちなみに、義嗣の遺児・嗣俊は幼年だったせいか、連座せず、越前に下って鞍谷御所(公方)の名乗りを許された。この家系は後に足利同門の斯波氏から養子を立てた朝倉氏により傀儡化される戦国時代まで、越前における室町将軍家の分家として存続していく。
 長年の潜在的なライバルであった弟を片付けた義持は、応永三十年(23年)、父にならって息子の義量〔よしかず〕に譲位したうえ、密かに出家したが、父と同様に実権は保持していた。
 ちょうどこの頃、上杉禅秀の乱後の処理をめぐり、苛烈な報復・粛清措置で臨んだ持氏とこれに不信感を抱いた義持の間で緊張が高まり、一時は幕府軍の派遣すら検討されたが、この時は持氏が謝罪し、和睦している。
 最晩年の義持を悩ませたのは、後継者問題であった。一人息子の5代将軍義量は病弱で、ほとんど何の事績もないまま、譲位からわずか二年後の応永三十二年(25年)に夭折してしまう。ところが、義持は養子もとらず、病床に伏しても、次期将軍の指名をかたくなに拒否した。
 そこで、次期将軍はいずれも出家していた義持の四人の弟の中からくじ引きで選ぶという前代未聞の奇策が提唱され、義持もこれを了承した。義持は自身の死後にくじ引きをするよう要望したが、幕閣の反対により、開封を死後とすることで妥協された。こうして、義持の治世はくじとともに幕を閉じたのだった。