歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(5)

[E:two] 独立アフガニスタン

[E:night]アマヌッラー国王の「社会革命」
 1919年、電撃クーデターで政権を掌握したアマヌッラー・ハーンがまず着手したのは、英国からの外交的自立であった。そこで、彼は5月、英国に対してジハードを宣言し、戦争を開始した。このような電撃的なやり方は、アマヌッラーの治世を特徴付けた。
 当時の英国は第一次世界大戦に勝利したとはいえ、総力戦による消耗も来たしていた。とはいえ、前線の英領インド帝国軍はなお精強で、装備が貧弱なアフガン軍は苦戦を強いられた。これに対し、アマヌッラー・ハーンはインド帝国領内に分断されていたパシュトゥン人の蜂起を煽動する作戦を用いるとともに、一時はインド帝国領内まで侵攻・占領する勢いを示した。
 戦況は英国優勢ながらも、膠着化の様相を呈する中、戦争の長期化を懸念した英国は一か月ほどでアフガン側の停戦要求に応じた。こうして8月には新たな条約が締結され、アフガニスタン保護国の地位を脱したのである。
 こうしてアマヌッラー・ハーンの下、アフガニスタンは独立国としての道を歩み始める。対英戦争時にはジハードというイスラーム大義を掲げたアマヌッラー・ハーンであるが、統治者としては断固たる近代主義者であり、父が着手した近代化改革をいっそう急進的に進めた。
 その改革は、社会の全領域に及び、特に一夫多妻制の否定や女性のチャドル着用義務の撤廃、世俗教育の導入などの欧化を進めた。23年には人権を保障する近代的な憲法を初めて発布し、26年には、従来のアミールの称号を廃止、イラン風のシャーに変更した。
 こうした一連のアマヌッラー改革では、ソラヤ王妃も一役買っていた。イスラーム系王朝では妃は表に出ない慣例を破り、ソラヤ王妃は常に夫と行動を共にし、公衆の前に立った。彼女はまた女性の権利向上、特に女子教育の拡充に熱心に取り組むなど、アフガニスタンにおける近代的な女性像を自ら体現していた。
 外交上も、アマヌッラーは革命後のロシア・ソヴィエト政権を承認し、21年には善隣条約を締結したうえ、ソヴィエトからの経済、技術、軍事にわたる多方面の援助を受け入れた。特に空軍の創設に当たってソ連製軍用機を導入したことは、英国の警戒と不信を買い、対英関係を悪化させた。
 ソ連も領内のイスラーム教徒を統制するうえで、国境を接するアフガニスタンの戦略的重要性を認識しており、独立アフガニスタンが発足当初からソ連との関わりを強めたことは、遠く後のソ連によるアフガニスタン軍事介入とその後の内戦の遠因ともなっただろう。
 このような一連の内政外交全般に及ぶアマヌッラーの改革は、優に「革命」と呼んでもよい性格を持ち始めており、親ソ的な外交政策を除けば、後に隣国イランでパフラヴィ国王が主導した「白色革命」の先駆けとも言えた。
 そして、それは共々イスラーム保守勢力の反感を強め、政権の命脈を絶つ結果ともなる。保守派はすでにたびたび反乱を起こしていたが、28年、パシュトゥン系シンワリ部族によるジャララバードでの反乱と北部の少数民族タジク族の反乱が同時発生したことは、命取りとなった。
 騒乱状態の中、アマヌッラー国王は王位を長兄のイナーヤトゥッラーに譲り、国外に脱出した。ところが、首都カーブルはすでにタジク族反乱軍が占領しており、イナーヤトゥッラー・シャーはわずか三日で退位に追い込まれた。代わってタジク族反乱軍指導者のハビーブッラー・カラカーニーが王位に就く事態となった。