歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第6回)

六 足利氏満(1359年‐1398年)

 2代鎌倉公方足利氏満とその息子の3代・満兼父子は、3代将軍・義満とほぼ同時代的に並立した鎌倉公方であり、ともに義満から名前の偏諱を授かりながら、その生涯は父子ともども義満への反抗に彩られていた。
 その反抗史の出発点となるのは、康暦の変であった。中央におけるこの政変時、氏満は斯波氏から教唆されて、反義満の挙兵を企てたが、時の関東管領上杉憲春の自刃による諫言があり、断念した。この時は義満に謝罪していちおう赦されているが、父の初代鎌倉公方・基氏が京都から招聘した氏満の教育係で、彼のメンターでもあったらしい義堂周信を京に強制召還されるという報復を受けた。
 氏満には将軍就任の野心があったと見られるが、さしあたりその野望を断たれた彼は、地盤である鎌倉府の権威確立に転じる。すでに彼が10歳の時には、上杉氏の支援を受け、父の代に鎌倉府を支えていた武蔵国実力者で坂東平氏の流れを汲む河越氏を中心とする武蔵平一揆を壊滅させていた。
 これによって鎌倉府及び関東管領職・上杉氏の権威は大いに高まったが、まだ充分でなかった。ことに北関東には土豪的名族の下野守護・小山氏が睨みを利かせていた。小山氏は、平安時代の武将・藤原秀郷の末裔を称する一族として足利将軍家とも結んでいた。
 氏満は康暦二年=南朝天授六年(1380年)、小山氏と同じ下野の名族・宇都宮氏の間の衝突に付け込んで、時の小山氏当主・義政を攻め、永徳二年=南朝弘和二年(82年)までにこれを滅ぼした。しかし、小山氏側も義政の子・若犬丸を擁して抵抗を続けるも、応永四年(97年)までに敗北した。その過程で、小山氏を支援した小田氏や新田氏などの豪族も討伐し、鎌倉府の関東支配を強固なものとした。
 こうした氏満の実力を義満も認めざるを得なくなったものか、晩年の氏満は義満から奥州の統治を委ねられるなど、将軍家との関係は改善に向かうかに見える中、氏満は応永五年(98年)、40歳で病没し、嫡男・満兼が後を継ぐ。

七 足利満兼(1378年‐1409年)

 満兼は、父・氏満が没した時、すでに20歳に達しており、その地位承継は円滑に行なわれたようである。同時に、彼は父の反抗精神をも承継していたようで、就任の翌年に中国地方の名族・大内義弘が堺で反幕決起した際には、大内氏に加勢すべく、自ら出陣したほどであった。
 ところが、この時も康暦の乱の際の父と同様に、時の関東管領・上杉朝宗の諫言を受け、鎌倉に引き返している。その後、幕府に謝罪して赦された経緯も父と同様であった。
 満兼は、幼少で鎌倉公方として立ち、約30年の長期執権に及んだ父とは異なり、10年余りの執権であったので、さほど目立つ事績はないが、後半期の事績として、晩年の父から受け継いだ奥州統治を確立するため、二人の弟、満直と満貞を奥州に下向させ、それぞれ篠川公方稲村公方とした。
 ところが、両公方を通じて鎌倉府から領地の割譲を要求されたことに反発した奥州の実力者で、幕府と結んでいた伊達政宗(戦国時代の政宗とは同姓同名の先祖)が、応永七年(1400年)に挙兵する。時の関東管領・上杉朝宗は息子の氏憲(禅秀)を派遣、応永九年02年までにこれを鎮圧した。しかし、伊達氏の乱はこれにて終わらず、政宗の孫・持宗の代でも再び反乱を起こしている。
 将軍家では応永十五年(08年)に大御所・義満が死去し、息子の義持が名実共に将軍として立っていたが、満兼も翌年、義満の後を追うように没したため、以後いっそう激化する鎌倉府と幕府の対立抗争は後継者の嫡男・持氏のもとで展開されることになる。