歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(4)

[E:one] 保護国アフガニスタン

 第二次アングロ‐アフガン戦争後のアフガニスタンは、英国の保護国として再起することとなり、その最初の指導者が英国から王として認証されたアブドゥル・ラフマーン・ハーンであった。彼は敵対していた前首長の従兄弟であったから、血縁ではあるも、ここからは実質上別王朝の成立とみなすことができる。
 アブドゥル・ラフマーンの治世は対英戦争からは解放されたが、その代わり、国内の敵対勢力の反乱に悩まされた。最大の敵手は、従兄弟で元首長のアイユーブ・ハーンであった。対英強硬派でアブドゥル・ラフマーンを英国の傀儡として敵視する彼は1880年、地盤のあるヘラートに進軍・占拠したが、アブドゥル・ラフマーンは反撃して、アイユーブをペルシャ亡命に追い込んだ。
 アイユーブを片付けても、他のパシュトゥン系有力部族や少数民族の反乱が続いた。特に1880年代末に、シーア派少数民族ハザラ族が大規模な反乱を起こすと、これを弾圧し、奴隷化ないし殺戮する民族浄化も断行した。
 このように、アブドゥル・ラフマーンは国内の反乱勢力に対しては軍事力とともに、国内に張り巡らせた諜報網を使って苛烈に弾圧したため、「鉄の首長」の異名を取ることにもなった。他方で、彼は中央集権化を進め、慎重ながら一定の近代化も主導した。
 彼の治世後半期で特筆すべきは、1893年に英領インドとの間で取り決めたデュアランド・ラインである。時の英領インド外相・デュアランド卿の名を取って呼ばれるこのラインは、今日のパキスタンアフガニスタン国境線につながる英領インドとの境界線を確定するものであった。
 これにより、英露間の「グレート・ゲーム」で争点となっていた両国の勢力圏を確定することにその狙いがあったが、アフガニスタンにとってみれば、第二次対英戦争の結果、すでに生じていた歴史的なパシュトゥン人居住地域の分断が法的に確定したことを意味し、この分断状況は現代にまで禍根を残している。
 アブドゥル・ラフマーンが20年近い治世を終えて1901年に死去し、息子のハビーブッラー・ハーンが後を継いだ時には、国内の安定は確保されていた。そうした基盤のうえに、ハビーブッラーは父の代ではまだ不完全であった近代化改革を前進させた。その改革は医療・科学技術から教育、法制度にまで及ぶ広範囲なものであり、言葉の真の意味でのアフガニスタンの近代化はこの時代まで保留にされていたと言ってもよい。
 外交面では彼の時代に第一次世界大戦を経験するが、オスマン・トルコ=ドイツ陣営からの誘いにも乗らず、中立を守り通し、英領インドとの関係維持に努めることで、アフガニスタンの安全を保障した。
 しかし、ハビーブッラー・ハーンは1919年、狩猟中に暗殺され、後継首長には、ハビーブッラーの弟で、後継指名を受けていた実力者ナスルッラー・ハーンが就いた。しかし、この直後、ハビーブッラーの三男アマヌッラーがクーデターを起こし、ナスルッラー・ハーンはわずか一週間で廃位されることになる。