歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第3回)

二 足利尊氏(1305年‐1358年)

 足利尊氏は、先代貞氏の次男として鎌倉時代末期に生誕したが、本来足利氏の家督は貞氏の出家後いったんは異母兄の高義が継いでいた。しかし、高義は20歳ほどで夭折したため、貞氏が復帰していた。
 以後、貞氏は存命中に次男の尊氏(当時は高氏)に家督を譲った形跡がない。その理由としては、高義の母は北条氏出身の正室だったのに対し、尊氏の母は上杉氏出身の側室だったことが想定できる。北条氏への忠義に生涯を尽くした貞氏としては、北条氏の母を持たない次男に生前家督相続させることには憚りがあったのかもしれない。
 しかし、貞氏没後には尊氏が家内文書発給者となっており、相続は円滑に行なわれたようである。当初の尊氏は父の敷いた路線どおり、鎌倉幕府の忠臣としてスタートし、後醍醐天皇派による倒幕運動でも幕府側で鎮圧に当たっている。
 ところが、元弘三年=北朝正慶二年(1333年)に後醍醐天皇が再挙兵すると、当初鎮圧のため出陣した尊氏は幕府に反旗を翻して天皇側に付き、幕府の京都支配機関であった六波羅探題を滅ぼす功績を上げ、政権を握った後醍醐天皇から勲功第一人者として名前の偏諱を受け、尊氏に改名した。
 このように、尊氏はまさに「ミイラ取りがミイラになる」の諺どおりの行動を示したのであった。その理由として『太平記』では、元弘元年に後醍醐天皇が蜂起した際、父貞氏の喪中にもかかわらず幕府に出陣を強要されたことへの恨みを挙げているが、いかに封建時代人とはいえ、形式的な理由に過ぎるであろう。むしろ、後に後醍醐天皇にも反旗を翻した尊氏の行動からして、彼には情勢を読んで敵味方を乗り換える党派政治家的な性格が濃厚に見て取れる。
 実際、彼は後醍醐天皇の反動的な天皇中心政治が人心を離反させているのを見るや、天皇を見限る。この後、後醍醐天皇派との抗争を経て、北朝を樹立したうえ、室町幕府を開くまでのよく知られた経緯は省略するが、彼の党派的な日和見主義が朝廷・公家勢力をも巻き込み、南北朝動乱を招いたことは否めない。
 さて、尊氏の天下取りは東国武士源氏が再び政権を奪回したという歴史的意義を持ったが、おそらくは分裂した朝廷を統制しやすくするため、平氏政権を除けば、歴代武家政権としては唯一京都に首府を置いたため、室町幕府体制は一種の公武二重権力状態となった。
 そのうえ、発足当初の幕府は主として軍権を握る尊氏に対し、行政・司法面を同母弟の直義〔ただよし〕が分担する二頭政治であった。このような権力分有体制は尊氏が行政・司法のような実務を苦手としたことの結果とも言われるが、幕府の基盤が安定しない間の権力分有は内紛のもとになりかねなかった。
 果たして、足利氏の執事として強い発言力を持つようになっていた高師直と直義の対立が高じて、貞和五年=南朝正平四年(49年)から観応三年=南朝正平七年(52年)にかけて内戦が勃発する。この観応の擾乱で、尊氏は兄を裏切って南朝に降った直義を追討するため、自身も南朝に降るという奥の手を使った。結果として、暫定的な南北朝統一(正平一統)が成立したのだが、このような幕府の権威を落としかねない術策にも、尊氏の日和見主義が現われている。
 観応の擾乱を契機に、尊氏は嫡男の義詮を擁するとともに、四男の基氏を鎌倉公方として鎌倉に赴任させ、出先機関として鎌倉府を整備した。このように、東国統治の出先にも足利将軍家を配したことから、後に鎌倉府が自立化し、事実上の東西幕府体制に移行するもととなった。
 観応の擾乱が文和元年=南朝正平七年(52年)の直義の敗北と急死―尊氏による暗殺説がある―をもってひとまず終結する。しかし直義派残党はその養子で尊氏の未認知の実子とされる直冬を立てて、中国地方を根拠地に抵抗を続け、文和三年=正平九年(54年)には京都に進撃、尊氏が一時京都を追われる危機に陥るが、義詮の助力を得てこれを撃退した。
 このように、尊氏の治世は南北朝動乱に加え、一族の内紛も絶えず、政情が安定することはなかった。ここにも、尊氏の日和見主義と統治能力の欠如が関わっていたであろう。その点で、江戸幕府初代の徳川家康とは大きな相違がある。
 それでも、幕府が倒壊せず、存続していけたのは、尊氏自身、武将としての戦闘指揮には長けていたこととともに、嫡男として2代将軍に就任する義詮と初代鎌倉公方として関東統治の基礎固めをした基氏という二人の有能な息子たちの補佐があったことによるところが大きい。