歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(2)

 曖昧な近代の始まり

バーラクザイ朝の成立
 アフガニスタンに関して近代史を語る難しさは、いつから近代が始まるのかが曖昧なことである。いちおう、現代アフガニスタンにおいて最大勢力―とはいえ、その比率は50パーセント前後―であるイラン系民族パシュトゥン人が最初に王朝を建てたのは、1709年のことであった。
 しかしこのホターキー朝はわずか29年で滅びてしまう。続いて1747年、ホターキー朝を担ったギルザイ部族連合とは別のパシュトゥン人一派がドゥッラーニー朝を樹立する。以後、アフガニスタンの王家は広くはこの王朝を建てたドゥッラーニー部族連合から出るため、その始祖アーマド・シャー・ドゥッラーニーは「建国の父」とみなされている。
 彼に始まるサドーザイ部の王朝支配は19世紀まで持続するが、1826年、弱体化・分裂した王朝からドスト・モハンマド・バーラクザイが独立して、新たにバーラクザイ朝を樹立した。ドスト・モハンマドはドゥッラーニー部族連合の中でも旧王家を担ったサドーザイ部とは別筋のバーラクザイ部の出身であった。
 彼は首長(アミール)を名乗ったため、以後はアフガニスタン首長国となる。このバーラクザイ朝首長国は1929年の内乱を契機に実質的な王朝交代がなされるまでアフガニスタン近代への橋渡し役を担ったので、いちおうこのバーラクザイ朝の成立をもってアフガニスタン近代史の始まりとみなすことはできるが、その歩みは古い部族的慣習とイギリスとの戦争により大きく遅れる。
 初代首長となったドスト・モハンマドが最初に直面した外患はムガル帝国が衰退したインドとインドを根拠に西アジアへの覇権拡大を狙うイギリスが絡んだ複雑なものであった。当初は復権を狙う旧王家サドーザイ部のシュジャー・シャーが北インドパンジャーブ地方に興ったシク王国と組んで、バーラクザイ朝の転覆を企てた。ドスト・モハンマドは抗戦し撃退したものの、現在はパキスタン領に属するペシャワルを奪われた。
 当時のシク王国を率いるのは、「パンジャーブの虎」の異名を持つランジート・シングであったが、ドスト・モハンマドも善戦し、シク王国の南下を抑止した。これでひとまずバーラクザイ朝は安定的な船出に向かうかに見えたが、今度はイギリスが干渉してくる。
 当時ムガル帝国を攻略してインドに足場を築きつつあったイギリスはロシアの南下に対抗するべく、戦略上アフガニスタンへの軍の進駐を必要としていた。このイギリスの要求に対し、ドスト・モハンマドは先に失ったペシャワルの回復を条件とする駆け引きを展開した。
 イギリスにとってみると、バーラクザイ朝がペシャワルを回復することは領土拡張につながり、イギリスの西アジア戦略上障害となりかねない。そこで1838年、イギリスはなお復権の野望を捨てていなかった前出のシュジャー・シャーに対し、王位を約束しつつ、バーラクザイ朝に対し、宣戦布告する。
 こうして始まったイギリスの対アフガン戦争は、その後、さらに二度起こる一連の対アフガン戦争の最初のものとして、後世、「第一次アングロ‐アフガン戦争」と呼ばれることになる。
 またこの頃に始まる、アフガニスタンを中心とした西/中央アジアをめぐるイギリスとロシアの帝国主義的な覇権抗争を「グレート・ゲーム」とも称するが、他人の庭を踏み荒らすこの迷惑な「ゲーム」こそ、アフガニスタンの近代史を引き裂いた主因であった。