歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(10)

後記

 サレハ政権崩壊後に勃発したイエメン新内戦はまだ歴史でなく、現在進行中の事象であるので、後記として言及するにとどめざるを得ない。こたびの内戦は南北間の内戦ではなく、サレハ政権を継いだハーディ政権とザイド派武装勢力フーシ派との間のものである。
 フーシ派はイエメン統一後に一介の宗教指導者フーシ一族を中心に台頭した新興の宗教勢力で、その目的は北イエメン共和革命までの支配層であったザイド派の復興にあるとされる。しかしサレハ政権から危険視され、04年に当時の指導者の殺害を含む大規模な弾圧を受けて以来、軍事化傾向を強める。
 11年の「アラブの春」では、反政府側で参加し、サレハ大統領の退陣に一役買うが、湾岸協力会議アメリカを後ろ盾とするハーディ新政権とは対立関係に陥った。そして14年9月に首都サナアに進軍、翌1月にはハーディ大統領を辞任に追い込み、2月に政権を掌握した。
 フーシ派はザイド派イマームの統治を理想とするが、当面は最高革命委員会を指導機関とする暫定政権を発足させた。最終的にどのような体制を構築する意図かは明らかでないが、14年10月にはザイド派王朝最後の国王バドルの子息アギール・ビン・ムハンマド・アル‐バドルを亡命中のサウジアラビアから招聘・帰国させるなどの復古的な動きも見られた。
 このような一種の革命を成功させた要因として、同じシーア派イランの支援に加え、背後にサレハ前大統領の支持もあると見られている。変わり身が早く、政略に長けたサレハであれば、何らかの形での復権を狙って、在任中は敵対したフーシ派支持に回っても不思議はない。
 *追記:2016年7月、サレハはフーシ派と正式な同盟関係を結んだが、17年12月、サウジとの和平交渉に入ることを宣言し、同派との同盟関係の解消を決めた矢先、フーシ派の攻撃を受け死亡した。
 こうした「フーシ革命」に対して、15年3月以降、サウジアラビアを中心とする有志連合が空爆作戦でフーシ派政権の殲滅を開始し、内戦が本格化するとともに、民間人の犠牲者も増大している。
 15年10月現在、復権を目指すハーディ派が暫定首都とする南部の中心都市アデンを奪還し、北部をフーシ派が実効支配する状況であるが、結果として旧南イエメン出身のハーディ派と北部に多いザイド派を代表するフーシ派が南北に分断支配する形となりつつあり、イエメンは再び分断の危機に直面しているとも言える。
 ちなみに、イエメンではサレハ政権末期の混乱に乗じて、アル・カーイダ系過激組織がスンナ派の多い南部に拠点を置きつつ、12年、13年と首都サナアで大規模な爆破テロ事件を起こすなど、活動を活発化させている。かれらはフーシ派とは宗派上対立関係にあり、フーシ派殲滅を呼号する一方で、サウジアラビアとも敵対している。
 さらには、同じ反フーシのスンナ派系過激組織ながら袂を分かったアル・カーイダとは対立するイスラーム国を名乗る爆破テロ事件も発生しており、同勢力もしくはシンパ勢力がイエメンにも浸透しつつあることを窺わせる。
 かくて、現イエメンはフーシ派(親イラン)vsハーディ派(親サウジ)vsアル・カーイダ(反サウジ)vsイスラーム国(反フーシ)の四勢力の抗争関係にあるとも言え、その行方は混沌として見通せない情況である。
 そうした中、国連世界食糧計画は15年8月、イエメンで食糧難が発生しており、数百万規模での飢餓に陥る危険があることを警告した。そうした大規模人道危機を抑止するには内戦の早期終結が不可欠であるが、そのためにも周辺大国や米欧による自国利益を慮った介入の中止がまず求められることは、シリア内戦と同様である。(連載終了)