歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(6)

五 両イエメンの歩み〈2〉

 
 両イエメンでは、1978年に同時発生したそれぞれの政変を経て、新体制が発足する。北ではサレハ独裁政権、南ではイエメン社会主義者党(YSP)独裁政権である。
 北で新政権を樹立したサレハは一兵士として北イエメン軍に入隊した後、王党派との内戦で功績を上げ、将校に昇進したたたき上げの軍人であった。77年にガシュミ前大統領が暗殺された時、彼はまだ権力中枢に届かぬ軍の少壮幹部に過ぎなかったが、事件直後の混乱を速やかに収拾し、瞬く間に政権トップに躍り出たのだった。
 このような経歴からしても、サレハは相当な策士であった。彼は就任直後、謀反の疑いをかけた軍将校を大量処刑し、恐怖政治の姿勢を示した。そのうえで、82年には全体主義的な翼賛政党となる人民全体会議を結成し、早くも長期執権体制を確立した。
 人民全体会議はいちおう共和革命以来の北イエメンの国是でもあったアラブ民族主義を基調としてはいたものの、その内実は軍部を権力基盤とするサレハ独裁のマシンに過ぎなかった。とはいえ、この体制の下、従来政変が相次いだ北イエメンの政情は安定に向かう。
 サレハ政権は外交的にも共和革命以来の親ソ的な立場を修正し、サウジアラビアをはじめとする湾岸諸国や西側諸国と友好関係を築き、経済援助や出稼ぎ労働先の確保にも成功した。
 一方、南イエメンの事情はやや複雑であった。78年に一党独裁政党として改めて結成されたYSPのトップには独立闘争の古参で、67年の南イエメン独立以来、事実上の最高実力者でもあったイスマイルが就任し、新たに設置された元首相当職の最高人民会議議長も彼が兼務した。
 しかし、80年、イスマイルは突如、健康上の理由で全職務から引退し、ソ連へ出国、後任ポストは実質的なナンバー2のアリ・ナシル・ムハンマド首相が継承した。体制内でのこの政権交代は、実質上ムハンマド派による党内クーデターの意味を持っていた。
 その火種は、社会主義政党によく見られるイデオロギー対立の裏に中東的な部族対立も絡む複雑なものだった。簡単に言えば、イデオロギー的な親ソ・強硬派であったイスマイルに対し、より穏健で現実的なムハンマドが追い落としを図ったのだ。この党内抗争は尾を引き、85年にイスマイルが党政治局員として復権したことを契機に、翌年には内乱が勃発する。
 党政治局会議での銃撃事件に端を発したこの内乱は最大援助国ソ連の仲介により12日間で終結するが、短期間で最大推定1万人が犠牲となる凄惨な内戦となり、イスマイルを含む主要な党幹部も大半が命を落とす異常事態であった。
 銃撃事件の背後にあったと見られるムハンマドは結局敗北し、北イエメンに亡命した。代わって、イスマイル派のアリ・サレム・アル・ベイドが政権を掌握したが、これはイスマイル派の勝利というより、亡命したムハンマドを除けば、彼が党幹部で唯一の生き残りだったことによる。
 かくて、1980年代後半の時点では、軍事独裁制ながら政情安定化に成功した北イエメンと、内乱による社会経済の混乱で存亡の危機に立たされた南イエメンの明暗が大きく分かれる結果となった。