歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(4)

三 南イエメンの独立

 
 南イエメンは、北イエメン独立後も、アデン植民地と周辺の保護領から成る英国支配下にあった。56年のスエズ動乱で英国がスエズ運河権益を喪失すると、南イエメンの中心港湾都市アデンは石油精製の拠点として重視されるようになる。
 そのアデンは英国統治下で近代化が進み、労働組合運動などの社会運動も盛んになっていったが、それは一方で対英独立運動の足場も提供した。そうした南イエメン民衆の政治的エネルギーは北イエメン共和革命にも触発され、表面化する。
 北イエメンで共和革命が起きた62年、南イエメンでは英国主導の南アラビア連合が設立されていた。これは最終的に17もの小邦(大半は首長国)で構成され、英国から68年の独立を約束された一種の独立準備国家であった。
 しかし、それを待たず63年に反英独立闘争の火蓋が切られる。英国側の視点に立って「アデン非常事態」と呼ばれるこの武装闘争は、ナセル主義の南イエメン被占領地域解放戦線(FLOSY)とマルクス主義の民族解放戦線(NLF)という二つの対立的な武装組織によって主導された。
 この独立闘争は北イエメン内戦とほぼ並行する形で、67年にかけて対英ゲリラ戦の形で展開された。転機は67年の南アラビア連合軍の兵士・警官による反乱であった。英国側の現地兵士・警官の反乱は、英国にとって大きな打撃であった。英国政府は軍の完全撤退を決定、同年11月に南イエメン人民共和国が発足する。
 この際、英国との独立協議では優勢なNLFだけが当事者として扱われ、FLOSYや小邦首長らは排除された。そのため、南イエメンは最初からNLF主導体制でスタートする。
 NLF内部でも穏健派と急進派のせめぎ合いがあり、当初は南イエメン初代大統領カフタン・ムハンマド・アル‐シャービが率いる穏健派が主導したが、間もなくアブドゥル・ファッター・イスマイルに指導された急進派が69年に党内の実権を掌握し、アル‐シャービを投獄したうえ、70年に改めて南イエメン人民民主共和国を発足させた。
 NLFは78年にはイエメン社会主義者党と改称、以後同党が唯一合法政党とされる。この体制ではマルクスレーニン主義が基本路線となり、南イエメンソ連陣営に組み込まれ、ソ連の衛星国となった。これはアラブ史上唯一のマルクスレーニン主義国家であった。