歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(3)

 共和革命から内戦へ

 
 イエメン王国のアラブ国家連合への加盟は、軍部を中心にナセルに傾倒するアラブ民族主義者を勢いづかせ、前近代的な王制打倒への動きに弾みをつけた。その点で、連合への加盟はザイド派王朝にとって自らの命脈を縮める選択であった。
 アラブ国家連合自体は1961年、シリアの脱退により崩壊したが、翌年、アフマド国王が死去し、息子のムハンマド・アル‐バドルが即位したのを機に、近衛隊司令官アブドゥラ・アル‐サラル大佐に率いられた軍将校による軍事革命が勃発、北イエメンは共和制へ移行した。
 実のところ、バドル国王もナセルに傾倒しており、急進的なナセリストのサラル大佐を近衛隊トップに任じたのも国王自身であった。そうした臣下の裏切りの要素もあった革命に対してバドルは降伏せず、サウジアラビアの支援を得て亡命政府を樹立、共和派に対して反革命戦を挑んだのだった。
 時は冷戦の最中であり、イエメン内戦が中東全域の紛争に拡大することが懸念され、アメリカと国連は調停と監視を試みたが、成功しなかった。しかし、ソ連はこの紛争に深入りせず、米ソの代理戦となることはなかった。
 こうして開始された北イエメン内戦は、共和派をエジプトが、王党派をサウジアラビアとヨルダンがそれぞれ支援する形で、アラブ世界を分断する戦争となった。南イエメンの領有を続ける英国も、65年までは秘密裏に王党派を支援していた。
 特にエジプトのナセル政権は共和派支援に全力をあげて軍事介入した。エジプトが小国イエメンにそこまで入れ込んだのは、エジプト主導によるアラブ連合共和国の崩壊を受けて、中東におけるエジプトの覇権を維持することに理由があったと見られる。
 一方で、宗派こそ異なれど、旧イエメン王国同様の絶対君主制を維持するサウジアラビアは共和革命の波及を恐れ、イエメン王国の復旧を支援する立場にあった。
 配下の部族勢力を結集したバドルが率いる王党派は近代化されたエジプト軍を相手に、北部山岳地帯を拠点にゲリラ戦法を駆使したため、内戦は持久戦に持ち込まれた。天下分け目の転機は67年であった。
 この年、エジプト軍が撤退すると、革命以来のサラル大統領が共和派内部の無血クーデターで政権を追われ、イスラーム法判事で文民のアブドゥル・ラーマン・アル‐イリアニ大統領に交代した。これを機に王党派が大攻勢をかけ、首都サナーを包囲したのだ。しかし空軍力で勝る共和派はこの包囲に耐え、共和派の勝利を決定づけた。
 最終的にはイリアニ政権下の1970年にサウジアラビアも共和国承認に転じ、和平が成立、革命から8年に及んだ内戦は終結したのであった。かくして、北イエメンは共和国として改めて再出発することになる。
 共和国承認に関してサウジアラビアから事前に何の相談も受けず、はしごをはずされた形となったバドルはその後、英国へ亡命し、南北イエメン統一後の96年に当地で客死するまで、政治から身を引いて過ごした。