歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(2)

 北イエメンの独立

 
 イエメンの近代史は、他の多くの中東諸国と同様、オスマン・トルコの支配を抜け出した時点に始まる。イエメンの場合は、1918年である。時のザイド派イマーム、ヤフヤ・ムハンマド・ハミド・エッディンはすでに13年のオスマン帝国との条約により、実質的な自治権を獲得していたが、第一次大戦の敗者となったオスマン帝国はついにイエメンを放棄したのだった。
 とはいえ、ヤフヤを君主とするこの独立イエメン王国の領土はイエメン北半部に限局されていた。というのも、イエメン南部は1839年以来、インドへの中継港としてアデンを侵略した英国によって植民地化されており、1905年には当時のオスマン帝国との間で締結された南北境界条約で両大国によるイエメン分割支配が約されていたのである。
 大イエメン主義に基づくイエメン統一を悲願とするヤフヤ国王は19年以降、たびたび英国領南イエメンに攻撃をしかけるが、英国の反撃にあい、成功しなかった。結局、ヤフヤは34年の条約で、英国の南イエメン支配を40年以上にわたり承認することを合意した。
 ヤフヤの大イエメン主義は北隣の新興王国サウジアラビアとの国境紛争も引き起こしたが、34年のサウジ‐イエメン戦争後の条約で、現在の両国国境線が画定した。
 かくして、近代イエメンはまず北半部の独立からスタートした。イエメン統一をひとまず断念したヤフヤ国王は正規軍の創設や文武の人材育成のため、留学生を周辺国へ送るなど、王国の基礎作りに専心した。
 ただ、サウジアラビアをはじめとする他のアラビア半島諸王国が1920年代の油田発見を契機に、石油を基盤とする近代的経済開発を進めていくのとは対照的に、イエメンは油田が乏しく、その近代化の歩みは出遅れた。
 国際的には、45年にアラブ連盟の創設メンバーとなったほか、47年には国際連合加盟国ともなった。しかし、独立からちょうど30周年に当たる48年、ヤフヤは対立する氏族勢力によるクーデターで殺害された。このクーデターは隣国サウジアラビアの支援で鎮圧され、ヤフヤの息子のアフマド・ビン・ヤフヤが後継者として即位することで、事態は正常化した。
 アフマド国王は父よりは外交関係の拡大に積極的に取り組み、冷戦初期にあってソ連陣営との結びつきを強めた。また共和革命後のエジプトに接近し、58年にはエジプト、シリアとともにアラブ国家連合の創設にも加わった。
 とはいえ、ヤフヤとアフマド父子の二代40年以上にわたったイエメン王国統治は、基本的に保守的かつ絶対主義的なものであり、統治に必要な限りで近代国家の要素は取り入れるが、部族的慣習に基づく伝統社会は固守した。
 このことは、近代化が最も進んでいた軍部の急進派将校を中心に共和制樹立への動きを強めていったであろう。以後のイエメン近代史は、石油利権を武器として権力基盤を固めていく周辺王制諸国とは全く違ったものとなるのである。