歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(17)

[E:seven] シリア内戦

[E:night]ダマスカスの短い春
 シリアでは2000年にアサド大統領が急死し、近代シリア最長30年に及んだ長期政権が終焉した。しかし事前の入念な世襲工作が功を奏し、次男のバッシャール・アサドへの権力継承が円滑に行なわれた。これは共和制国家での権力世襲という異例の出来事であったが、アラウィー派少数支配という特異な体制を混乱なく維持するためには、世襲政権の形を取る必要があったのであろう。
 ただ、本来後継候補だった兄の事故死でお鉢が回ってきたにすぎないバッシャールは眼科医の出身であり、軍部・治安機関を最大権力基盤とした職業軍人出身の父親に比べ、指導力には疑問がつきまとった。それを補うため、父はバッシャールを軍に編入して、軍人としての経験を積ませたほか、レバノン干渉のような重外交問題でも役割を与えるなどしたが、父アサドの死はいささか早かった。
 政権発足当初のバッシャールは父の厳格な抑圧政策を一定緩和する姿勢も示そうとした。こうしたバッシャール政権下での自由化は「ダマスカスの春」と呼ばれる一時期を作った。この時期、シリアの知識人らは「サロン」を結成して、それまでタブーだった様々な政治・社会問題について討議し、00年9月には有力知識人99人による「99人声明」が提起された。
 この声明は恒常的な非常事態令の廃止や、政治犯の釈放、言論・集会の自由などの民主化を求めていた。これはさらに翌年1月の知識人1000人による「1000人声明」としてより具体化された。
 バッシャールもこうした在野の声に答え、政治犯収容所の閉鎖やムスリム同胞団関係者の釈放などシリア体制としてはかなり大胆とも言える自由化措置に出たが、それも束の間だった。こうした自由化政策は父親の時代以前から続くバース党支配体制の安定を危うくしかねないものであり、古参党幹部の反対にあい、挫折する運命にあったのだ。
 01年に入ると、政権はこうした批判的知識人の投獄やサロンの強制閉鎖などの弾圧措置を開始し、ダマスカスの春は一年で終息した。しかし、その余波はさらに継続し、05年にはシリア政府の権威主義的な姿勢を批判する知識人による「ダマスカス宣言」が改めて出された。
 こうした動きは裏を返せば、体制批判を完全に封じ込めた父ほどの絶対的権威を持てない息子の世襲政権の弱さを示していた。しかし、シリアでの先駆け的な民主化運動は、2010年代に入ってアラブ世界に広く同時発生した民衆蜂起「アラブの春」の序章のような意義を持ったとも言える。シリアでも、11年初頭以降、民衆のデモ行動が開始される。