歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(16)

[E:six] イラク戦争と「内戦」

[E:night]「内戦」の時代へ
 第二次イラク戦争終結後は、米英主導の有志国暫定当局がイラクの統治に当たることとなったが、その法的根拠は薄弱で、イラク国民からすればまさに「占領当局」であった。米英ではかつての連合国による日本統治をイメージしていたようであるが、これは国情を無視した全くの空想であった。
 暫定統治開始直後から、強制解党されたバース党残党などを主力とする武装抵抗が活発化し、2003年末にフセインが拘束されても、終息しなかった。04年4月には残党の拠点となっていたファルージャで米軍と武装勢力の大規模な戦闘が起きた。この戦闘では、米軍による数々の残虐行為が報告されている。
 この戦闘をどうにか制した暫定当局は、同年6月にはイラク側暫定政権に権力を委譲した。この点でも、占領終了まで7年をかけた日本統治とは異なり、中途半端であった。明けて05年には暫定議会選挙を経て、国民投票により新憲法も承認された。
 こうして正式に発足したイラク新体制は多党制に基づく議会制を強制されたため、イラクの宗派構成に沿って、多数派シーア派主導のものとなった。これは、それまでのイラク近代史上における重大な転換であった。スンナ派主導で成り立っていたバース党関係者が公職追放されたため、スンナ派は一転して政治的に閉塞するようになったのだ。
 シーア派主導政権の中心に立ったのは、フセイン政権時代は政治犯として亡命していたヌーリー・マーリキ首相であった。彼はイランが支援するシーア派宗教政党ダーワ党に属していたが、同党トップのジャーファリー移行政府首相がイランやシーア派武装勢力指導者ムクタダー・サドルと親密なことから各方面の反発を買い、首相を辞退したのを受け、ナンバー2のマーリキに白羽の矢が立ったのだった。
 短命に終わると見られたマーリキ政権であったが、マーリキは次第に長期執権を想定した権威主義的な傾向を見せ始める。特に仇敵フセインに対しては容赦せず、フセインを裁判にかけ、06年には死刑に処したが、こうした強硬策はかえってフセイン体制残党を含むスンナ派の反発と抵抗を強めるだけであった。実際、マーリキ政権下では爆弾テロが日常化する状態となった。
 これに対し、09年に発足したアメリカのオバマ政権は戦死者を出し続ける米軍の早期撤退に動き、10年8月までに駐留米軍撤退、11年にはイラク軍訓練部隊も撤退し、完全にイラクから手を引いた。
 こうしたアメリカの無責任とも言える対応と、まとまりを欠くシーア派政権の弱体はスンナ派武装勢力にとっては絶好の空隙であった。瞬く間にイラクの広域を実効支配するようになった「イスラーム国」集団はそうした空隙を突いて台頭した新興勢力である。
 この勢力はカリフ国家の再興を呼号する宗教的過激勢力として台頭したが、行政・軍事面は実務経験豊富な旧バース党・旧政府軍残党が担っていると見られ、こうした奇妙な聖俗合同に当たっては、フセイン政権ナンバー2の地位にあったイザト・イブラヒムが尽力したとも言われる(後に離反し、2015年の政府軍による掃討作戦で死亡したとされるが、未確定)。
 かくして、第二次イラク戦争後のイラクは「内戦」の時代に入ったと言える。その行方は、シーア派主導政権の背後にいるイランと米英など元有志国の利害も複雑に絡み、混沌として予測不能である。
 他方、フセイン政権下で民族浄化を経験したクルド人は新体制下では高度な自治権を獲得し、そのクルディスタン地域はイラク国内で最も安定繁栄を享受し、宿願の独立すら窺う情勢にある。これは、イラク戦争の数少ない成果の一つである。