歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(14)

[E:six] イラク戦争と「内戦」

[E:night]第一次イラク戦争湾岸戦争
 対イラン戦争に「勝利」したフセイン政権は、戦争の傷跡も癒えない中、今度は隣国クウェートへの侵攻・併合というあまりに古典的な侵略行動に出た。クウェートはイラン‐イラク戦争では湾岸諸国中最も強力にイラクを支持した「恩人」であったが、恩を仇で返すかのようなフセインの行動には経済的な打算があった。
 イラン‐イラク戦争終結時、原油価格の値下がりにより、石油を主要な輸出品とするイラクに不利な状況が生じていた。当時のイラクは、多額の戦時債務と戦乱からの復興事業の遅れに苦しんでおり、原油安はそれに追い打ちをかけていたのだ。
 イラク政府はOPECに対し、原油価格引き上げを要請するも、受け入れられず、フセインは矛先をクウェートへ向ける。両国国境にあるルメイラ油田でクウェートが傾斜採掘法によりイラク側油田を盗掘していると非難し始めたのだった。
 この主張を否定するクウェートイラクの対立が頂点に達したため、サウジアラビア、エジプト、PLOの仲介外交が活発に行われ、いったんは外交的解決に向かうかに思われたが、1990年8月2日、イラク軍は10万人の精鋭部隊をもってクウェートに奇襲攻撃をしかけた。
 元来小規模・軽武装クウェート軍はほとんど抗戦できないまま、数時間のうちにクウェートイラク軍に占領され、当時のジャビル首長は亡命、親イラク派のクウェート軍将校を首班とする傀儡政権が樹立された。こうした経緯を見る限り、フセインは早くからクウェート侵攻を計画し、隠密に準備を進めていたと思われる。
 この時、アメリカの駐イラク大使がフセインとの事前会談で不介入方針を示唆する誤ったメッセージを送ったと非難されたが、米大使にクウェート侵攻を容認する意図はなく、情報戦に長けたフセインアメリカに対しても侵略の底意を巧妙に隠していたのである。
 こうして、フセイン政権によるクウェート侵攻は電撃的な成功を収めたが、フセインは長期的な展望においては、計算を間違えていた。国連の経済制裁によりイラク経済はいっそう疲弊したうえ、アメリカの武力介入を招いたからである。
 アメリカのブッシュ(父)政権は東欧も含む欧州諸国やサウジをはじめとする湾岸諸国の支持に加え、フセイン政権と対立する反米的なシリアまで引き入れ、30か国を超える多国籍軍を結成、翌91年1月以降イラクへの介入戦争を開始した。
 多国籍軍は米空軍を中心とするハイテクを駆使した圧倒的な制空力で有利に戦況を進めた。これに対し、地上戦力中心のイラク軍は苦戦し、数万人規模の戦死者を出して、91年3月、停戦協定に至った。あっさり降伏したように見えるが、これは残存戦力の温存を図ったフセイン政権の思惑でもあっただろう。
 「湾岸戦争」と通称されるこの戦争は参加国の国際的な広がりから見て、第二次大戦以来の国際戦争の様相を呈するとともに、冷戦終結を象徴して、多国籍軍が東西にまたがって組織された点に特徴があった。とはいえ、イラク側で正式参戦した国はなく、多勢に無勢の非対称な戦争であり、「湾岸戦争」という呼称は的確と言えない。
 むしろ、この十数年後の2003年、再びアメリカが発動し、最終的にフセイン政権を排除した「イラク戦争」の前哨戦とも言えるので、03年の「第二次イラク戦争」に対し、「第一次イラク戦争」と呼ぶほうが正確であろう。