歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(13)

[E:five] バース党の支配

[E:night]サダム・フセイン独裁体制
 イラクバース党体制では、1979年に一つの転機が生じた。この年、68年のバース党クーデター以来大統領の座にあったバクルが退任し、副大統領サダム・フセインが後継に就いたのだ。この政権交代は表向き大統領腹心ナンバー2への平和的な禅譲の形を取ってはいたが、その経緯には疑念も持たれている。
 というのも、バクルは数年来実権をフセインに握られていたとはいえ、それまで対立関係にあったシリアのアサド政権と前年に国家統合の方向で交渉に入っていたからである。この統合で自身の権力が弱化することを恐れたフセインが、バクルを退任に追い込む画策をしたという説がある。実際、フセインは大統領就任直後、親シリア派と目された党幹部らを大量粛清していることからも、こうしたフセイン画策説は間接的に裏づけられる。
 経緯はどうあれ、前大統領を傷つけずトップの座に昇ったフセインはバクルや隣国シリアのアサド大統領のように、職業軍人ではなく、文民の党活動家・職業的テロリストの出身であった。にもかかわらず、2003年まで24年にわたったフセイン時代は、職業軍人以上に好戦的なフセインの性格も反映して、多大の犠牲を伴う戦争に明け暮れる年月となった。
 最初の戦争はもう一つの隣国イランとの戦争であった。ちょうどフセインが大統領に就任した79年、イランではホメイニが指導するイスラーム革命が成功した。イランで支配的なシーア派イラクでも多数派であり、南部を中心に大きな勢力を持っていた。
 バース党体制は表向き世俗主義であったが、実際のところはフセインも含め、イスラーム世界全体では多数派ながらイラクでは劣勢のスンナ派主導の体制であったから、フセインは冷遇されていたシーア派イラン革命に触発されて蜂起することを恐れた。バクル政権下の75年の合意でイラン側に渡っていたシャットゥルアラブ川の領有権を奪回しようとの野心も手伝って、フセイン政権は80年、イランを攻撃して、戦争を開始する。
 イラン革命に脅威を感じていた同じスンナ派優位の湾岸諸国や前年の革命渦中、米大使館人質事件に見舞われて、革命イランと激しく敵対していたアメリカとも利害が一致したフセイン政権は、これら諸国からの支持・援助を取り付けることにも成功した。
 ことにアメリカでは81年に成立したレーガン政権が反イランの立場から敵の敵は味方の論理に従い、第三次中東戦争以来断絶していた国交を回復した84年以降、フセイン政権への軍事援助も開始した。これは、その20年後には逆にフセイン政権を粉砕することになるアメリカのご都合主義がはっきりと現われた政略であった。
 このように、多くの有力な諸国から支持・援助を取り付けながらも、イラクはイランの徹底抗戦を前に苦戦を強いられ、結局、88年、双方による国連停戦決議受諾をもって8年にも及んだ長期戦は終結した。この間、イラク側でも最大推定50万人という大量の戦死者を出す消耗戦であった。
 こうして、ほぼ引き分けに近い形ながらも「勝利」を称したフセイン政権下のイラクは、いつしか中東随一の軍事大国に成長していた。一方で、89年以降東欧・ソ連社会主義独裁体制が連鎖的に民主革命で倒れた出来事は、同様の体制を採るフセインに政権引き締めの必要を痛感させた。
 元来、フセインはナンバー2時代から治安機関を掌握し、その増強を図ってきた。この点では隣国シリアと同様にムハーバラートと呼ばれる治安諜報機関を中心に、アサド体制に勝るとも劣らぬ監視国家体制を作り上げていたのである。
 さらにフセイン政権は対イラン戦争の末期、並行して少数民族クルド人に対する民族浄化作戦を展開し、特に88年のアンファル作戦では毒ガスまで使用した無慈悲な虐殺で最大推定20万人近い犠牲者を出した。こうした政策はフセイン政権の本質が本来のバース社会主義を逸脱し、ナチスに近いものであったことを示している。
 ちなみに、フセイン政権がシリアから亡命保護していたバース党創設者のミシェル・アフラクは89年に死去した。フセイン政権は儀礼上アフラクを厚葬したが、彼はイラクの国政上何らの政治的影響力も有していなかった。