歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(12)

[E:five] バース党の支配

[E:night]アサド家独裁体制の確立
 シリアとイラクバース党の分裂が確定した1970年代以降、20世紀末までの両国は、ハーフィズ・アサドとサダム・フセインという互いに反目し合いながらも、共通の残酷さと巧妙さにかけては20世紀史に残る二人の独裁者による長期支配の時代に入る。
 先行したのは、アサドであった。アサドは60年代後半、シリア・バース党内の「穏健派」を代表する指導者として台頭し、70年の党内クーデターで「急進派」の政権を倒して政権を掌握した。これにより、以後のシリア・バース党政権は「穏健派」のものとなる。
 しかし、ここで言う「穏健」とは、専ら社会主義的政策における内政面での「穏健」―緩和―を意味しており、対外的な「穏健」を意味しなかった。そのことは、初期のアサド政権がエジプトと共にイスラエルに侵攻した第四次中東戦争を発動して以降、対イスラエル強硬派の立場を維持したことや、隣国レバノンの内戦に介入し、その後もレバノンを間接支配し続けたことに現われていた。
 アサド政権の特質は、政権と軍中枢を人口の1割程度に過ぎないアラウィー派で固める少数派独裁にあった。そのような脆弱な政権構造を補うためにも、アサドは自身の出身基盤でもある空軍の情報部をはじめとする複数の治安諜報機関網ムハーバラートを組織して、徹底した監視国家体制を構築した。
 そうした監視体制をもってしても、その異教的な教義からアラブ世界では異端視されるアラウィー派の少数支配には限界があり、80年代に入ると、多数宗派スンナ派の抵抗・武装蜂起を招くようになる。
 その最大級のものが、1982年に西部の古都ハマーで発生した。当時、ハマーを拠点に武装抵抗活動を展開していたスンナ派イスラーム組織ムスリム同胞団が当地で蜂起し、革命的様相を呈した。
 これに対し、アサド政権は大量の政府軍を投入して、陸と空から激しい武力攻撃を加えた。自国都市を攻撃破壊するというこの異常な軍事作戦により、数万人規模の犠牲者を出したと推定されているが、インターネットも存在していなかった時代柄、アサド政権の徹底した情報管制もあり、この「ハマー大虐殺」の全貌はいまだ解明されていない。
 アサド政権後半期で特筆されるのは、隣国イラクフセイン政権との反目であった。共に類似のバース党系独裁体制でありながら、長年にわたる両国バース党の分裂に加え、互いにアラブ世界の盟主たらんとする二人の独裁者の野心が両体制の敵対を助長していた。
 アサド政権はイラクが当事国となったイラン‐イラク戦争ではイラン側を支持し、続く湾岸戦争ではアメリカ主導の多国籍軍を支持して、サウジアラビアにも派兵するなど、一貫してフセイン政権の弱体化を狙った。
 政権末期になると、心臓に持病を抱えるアサド大統領の健康問題が浮上してきた。アサドは政権世襲を目指しており、当初は長男を後継者と目していたが、長男が交通事故で不慮の死を遂げると、医師だった次男のバッシャ-ルを後継候補に立てた。
 こうした生前からの周到な世襲準備が功を奏し、20世紀最後の年2000年にアサドが急死した際には、バッシャールの後継大統領就任が円滑に行なわれた。社会主義共和体制としては北朝鮮に次ぐ政権世襲であった。
 このような異例が可能となったのも、アサドの30年に及ぶ執権の過程で、前述の徹底した監視国家体制と思想洗脳的な個人崇拝教育を通じ、アラウィー少数派支配というアラブ世界では独異な王朝的寡頭体制が確立されていたことによるであろう。