歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(11)

[E:five] バース党の支配

[E:night]イラクバース党の支配
 “本家”シリア・バース党に対し、後発のイラクバース党は1963年のクーデターでアーリフ政権の実質的な基盤となるが、間もなく非バース党員のアーリフによる弾圧・排除により、しばらく閉塞せざるを得なかった。
 他方、“本家”のシリアでは66年のクーデターで急進派が党創設者アフラクを追放したのを機に、アフラク支持派であったイラクバース党はシリアの本家から離反、対立するようになったため、以後、両国バース党は事実上別党となった。
 この頃、イラクバース党内では軍人出身で、アーリフ政権初期に首相を務めたバクルが実力者として台頭していたが、アーリフ政権の弾圧により罷免・投獄された。しかし、党組織は壊滅することなく維持される。幸運にも、アーリフが航空機事故で急死した後に政権を継承した兄のアブドゥル・ラフマーンは優柔であった。
 そうした中、68年7月、バース党はクーデターを成功させる。このクーデターは軍内のバース党シンパ将校の支援もさりながら、この頃バクルの従弟で、側近としても台頭していた後の大統領サダム・フセインのような若手文民党員の貢献が大きかった。
 その後、二代にわたり2003年まで続いたバース党支配体制の樹立契機となったことから、クーデターの日付を取って「7月革命」とも呼ばれるこのバース党クーデターで、バクルは大統領の座に就いた。
 バクル政権はトップの大統領こそ軍出身であったが、フセインをはじめ、政権中枢者の多くが軍歴を持たない文民であり、シリアのバース党政権とは異なり、文民政権の性格が強いものとなっていった。しかし、それは政権が民主的であることを意味しなかった。
 政権は一党支配体制確立のため、ナセル主義者や共産党を弾圧した。その過程で、イラクバース党創設者で、党を除名された61年以降はナセル主義運動を率いていたリカービーも投獄・殺害された。彼は71年、投獄中に仲間の囚人により殺害されたと公式には結論づけられたが、政権による謀殺を疑う向きもある。
 当時のバクル政権ではクーデターの翌年、ナンバー2の革命指導評議会副議長に任命されたフセインが治安機関の再編・強化に集中的に取り組み、後に自身の政権下で猛威を振るうことになる秘密警察機構を作り上げている最中であった。
 しかし、70年代をほぼカバーしたバクル政権の時代は石油ショックとも重なり、有力な産油国であるイラクは国際的な石油価格の上昇により、高い経済成長のチャンスをつかんだ。社会主義的な土地改革や福祉制度も実施され、この時代のイラクは近代史上では相対的に最も安定と繁栄を享受した時代と言えた。
 しかし、それも長くは続かなかった。野心家フセインが高齢化するバクルに代わって次第に党内及び政権内で実権を握るようになり、政権継承へ向けて布石を打っていたのだった。70年代末になると、バクルの権力は名目的なものとなり、79年には病気を理由に退任、禅譲の形で副大統領のフセインが大統領に昇格した。